野村胡堂 銭形平次捕物控(巻三) 目 次  百草園の娘  飛ぶ若衆  猫の首環  月待ち  八五郎の恋人  百草園の娘     一 「親分、あっしの身体が匂やしませんか」  ガラッ八の八五郎が、入って来ると、いきなり妙なことを言うのです。  九月のよく晴れた日の夕方、植木の世話も一段落で、銭形平次はしばらくの閑日月《かんじつげつ》を、粉煙草をせせりながら、享楽している時でした。 「さてね。お前には腋臭《わきが》がなかったはずだし、感心に汗臭くもないようだ、臭いと言えばお互いに貧乏くさいが——」  平次は鼻をヒクヒクさせながら、こんな的の外れたことを言うのです。 「嫌になるなア、そんな小汚い話じゃなく、もっと良い匂いがするでしょう」  八五郎は素袷《すあわせ》の薄寒そうな懐ろなどを叩いて見せるのでした。 「あの娘《こ》の移り香を嗅がせようというのか、そいつは殺生だぜ、腹の減っている時は、そんなのを嗅ぐと、虫がかぶっていけねえ」 「相変らず、口が悪いなア、そんなイヤな匂いじゃありませんよ、お種人参《たねにんじん》と忍冬《にんどう》と茴香《ういきょう》が匂わなきゃならないわけなんだが」 「どこで、そんなものをクスねて来やがったんだ」 「人聞きの悪いことを言わないで下さいよ。香いの良い薬草を、一つ一つ紙に包んで、綺麗な人から貰ったんですよ、それを紙入に入れて、内懐ろで温ためてあるんだが——」 「そんなものなら、髷節《まげぶし》へ縛って、鼻の先にブラ下げて歩くとよく匂うぜ」 「叶わねえなア」 「ところで、それをくれた綺麗な人というのは、どこの人間だえ」 「ザラの人間と一緒にするには、もったいないくらい、良い女でしたよ、親分」 「眼の色変えて乗出すのは穏やかじゃないぜ、お前に薬草の葉っばをくれるんだから、いずれ場末の生薬屋《きぐすり》の後家《ごけ》か何か」 「銭形の親分も、それは大きな見込み違いですよ、後家やおん婆《ばあ》じゃありゃしません、ピカピカするような新造《しんぞ》、つくづく江戸は広いと思いましたよ、あんな良い娘が、世間の評判にもならずに、そっと隠れているんだから」 「若くて眼鼻が揃っていると、皆んな良い女に見えるから、お前の鑑定は当てにならない」 「でも、板橋の加賀様の下屋敷隣の御薬園の娘、お玉さんばかりは別ですよ、江戸中にはずいぶん綺麗な娘もあるが、あんな後光《ごこう》の射すようなのはありゃしません、大したものですぜ」 「そんな女は、女房や情婦《いろ》には向かないぜ、悪いことを言わねえから、あんまり近寄らない方がいいぜ」 「なぜです?」 「ピカピカ後光が射して見ねえ、眩《まぶ》しくて口説《くぜつ》もなるめえ」  銭形平次と子分の八五郎は、こう言った埒《らち》もない掛合い噺《ばなし》のうちから、肝腎の話の筋を運んで行くのでした。 「まア、真面目に聴いて下さいよ、親分。二三日前に、板橋の小峰涼庵《こみねりょうあん》先生のお薬園——百草園というんですがね、そこから、友達伝いに便りが来て、いちどは銭形の親分に来て貰いたいが、いきなりそう言ってやっても、容易には来て下さるまいから、せめて一の子分の八五郎さんに瀬踏《せぶみ》をして貰いたいという話で、滝野川の御稲荷様から弁天様にお詣りするつもりで、ちょいと寄り道をして、覗いて来ましたがね」  八五郎の話はようやく本題に入りました。 「で、弁天様は板橋の百草園に引越して、お前にありがたい薬草を下すったという筋か」 「先を潜《くぐ》っちゃいけません、板橋の方は生きた弁天様で、『ま、八五郎親分、よく来て下すったわねエ』とにっこりした」 「とたんにお前はフラフラになった」     二  その頃諸国の大名は、銘々の城下に御薬園を作らせ、一と通りの薬草を栽培させたばかりでなく、兵粮丸《ひょうろうがん》などを研究させ、万一の場合に備えましたが、江戸はさすがに将軍家の膝元で、音羽、大塚、白山などに、宏大なお薬園を設け、幕府は専門の本草《ほんぞう》学者に預けて、代々研究を重ねておりました。  ところが、この外にも、小規模ながら私設の薬園が各所に散在し、大名富豪の庇護《ひご》の下に、名ある本草学者などが、研究道場として、薬用の草根木皮を栽培し、珍木奇獣を集めて楽しんだ例は少くなく、百草園、薬園、百花園などの名が、はるか後まで遺っておりました。  板橋の百草園もその一つの例で、本草学者小峰涼庵が、加賀宰相の庇護をうけて板橋の下《しも》屋敷隣に地所を借りうけ、門弟達とともに、薬草の研究に余念もなかったのですが、一年前、園主涼庵は八十歳の高齢で他界し、後は門弟横井源太郎、打越金弥《うちこしきんや》の二人が、涼庵の忘れ形見でたった一人残された娘、——八五郎のいわゆる生身《いきみ》の弁天様と言われる、お玉を助けて、園の経営をつづけているのでした。  今はもう、加賀宰相の物的援助があるわけではなく、百草園の薬を採って、江戸の生薬屋に売るのが生活《くらし》で、その利分は大したものではなくとも、三人や五人の暮しには差支えなく、そのうえ、一人残った娘のお玉が美し過ぎたために、二人の内弟子、横井源太郎と打越金弥の間には、勝つか負けるか、生きるか死ぬるかの執拗無残な競争意識が生長して行くのは、どうすることも出来ない成行きだったのです。  二人の若い男のあいだに挾まって、お玉は空しく齢を取ってしまいました。その頃ではもう嫁《い》き遅れの二十二、非凡の美しさで、娘姿に薹《とう》も立ちませんが、はたの者に気を揉ませることは一と通りではありません。  中でも熱をあげたのは、横井、打越両人のほかに、近所の若い衆、若侍、数限りもありませんが、その中で、お玉を女臭いとも思わないのは、下男の為吉という欲の深い中老人だけ。八方から注がれる、燃えるような男の眼の中に、美しいものに生れついた、誇りと恐怖と、不安と満足とを、お玉は身に沁みて味わったのも無理のないことでした。  そのお玉が、近頃わけても疑惧《ぎぐ》を感ずるようになったのは、誰とも知らず、百草園に対して、ひどい悪戯《いたずら》をするものがあり、その上お玉自身も、思い及ばぬ危険にさらされることが多く、その都度、無事には助かりましたが、女心を脅かした疑惑の雲が、ことごとく晴れたわけではなく、恐怖は後から後からと、応接にいとまもなく襲いかかるのです。  その一つ二つの例をあげると、お玉が通っているとき、いきなり百草園の築地垣《ついじがき》が崩れて、危うくその下敷になりかけ、夜、床へ入ろうとすると、布団の中に、園の片隅に、金網を張った箱に飼ってあったはずの、逞《たく》ましい蝮《まむし》がとぐろを巻いていたり、全く容易ならぬことばかり続くのでした。  そのうちの幾つかは偶然の出来事であったかも知れず、残りの幾つかは、人手で行われた、タチの悪い悪戯だったかも知れないのです。幸い忠実な内弟子の打越金弥が、いつでも、どこかで気を配って居るらしく、風のように飛んで来ては、お玉を危ういところから助けてくれ、不安のうちにも、どうやら事無き日を過して来ました。  ところがここに、いけない事が起ったのです。主人筋のお玉を争って、日ごろ仇敵の思いを抱いている横井源太郎と、打越金弥が、フトしたことから争いを生じて、庭に飛出して、お互いに紙入留めに差している短かい脇差しを引っこ抜き、月の光の下に斬り結んだことがありました。  下男為吉の注進で、お玉が裸足のまま飛出してみると、二人は必死の構えで、肩で息をしながら、一間ばかり先で睨み合っていたのです。 「あ、なんということをするんでしょう、打越さん、横井さん、刃物を引いて」  お玉は刀と刀の間に、身を持って飛込みました。脛《はぎ》もあらわに、少し取乱してはおりますが、二人の争いの原因になった、この娘の美しさは、青白い月の光に強調されて、睨み合った二人のその相手を憎む心を、燃え立たせるばかりです。 「お嬢さん、退《の》いて下さい、この場で、今すぐ、二人のうちの一人は、死ななきゃなりません」  横井源太郎は声を絞ります。二十八歳の逞しい男、刀法には暗くとも、青白い打越金弥を圧倒し去る気力は充分です。 「ま、死ぬなんて、そんな事があっていいものでしょうか、どうしても止さなければ、私は自分から身を退《の》き、この百草園を捨てて身を隠します、——打越さん、貴方から先に、刀を引いて下さい」  お玉の声が掛けると、弱気らしい打越金弥は、それを期《しお》に刀を引いて、二間ばかり先から相手を睨んで立っております。 「ともかくも、ここで血を流すのだけは止して下さい、小峰涼庵の百草園で、門弟達が果し合いをしたと聞いたら、世間の人はなんと言うでしょう、お願いですから、横井さん、あなたも」  お玉に正面から睨まれると、強気らしい横井源太郎も嫌々ながら刀を引く外はなかったのです。     三  それから三日経たないうちに、娘のお玉は用事があって下女のお浅と共に下町へ出かけ、下男の為吉も、なんかの使いに出かけると、横井源太郎と打越金弥は、何の邪魔も仲裁もなく、ムキ出しの憎悪と憎悪に燃えて、二階の一間——百草園全部を見わたす、旧主人小峰涼庵の部屋に顔を合せてしまいました。 「打越、俺と貴公とは、永劫《えいごう》の世までも、並び立たないとは承知しているであろうな」  相手を睨み据えながら、さいしょに口を切ったのは横井源太郎でした。二人とも総髪《そうはつ》、黒木綿の袷《あわせ》、白い小倉《こくら》の袴《はかま》をはいて、短かいのを一本腰にきめておりますが、人相や気分は、対蹠《たいしょ》的に違っております。  横井源太郎は赤黒く逞しい男、目鼻立ちは立派ですが、激しい気性の持主で、それに対して打越金弥は、色白で柔和で、引っ込み思案で弱気です。 「それがどうしたというのだ」 「一度は生命《いのち》と生命の争いをしなければならない、ちょうど今日は、お嬢さんは留守」  横井源太郎はニヤリとするのです。 「血を流してはならぬ——とお嬢さんがくれぐれも言ったではないか」  打越はともすれば逃げ腰になります。 「果し合いをするまでもないことだ、今日この場から、貴公は身を退《の》くのだ、幸い長崎には貴公の帰りを待っているという両親もあるそうではないか、俺は天涯の孤児、どこへ行きようもないから、ここに踏み留まる」  横井源太郎は勝手なことを言って、肩肘を張るのです。 「嫌だ」 「何を?」 「身を退きたくば、貴公が退くがいい、俺は嫌だ」 「では尋常に勝負をするか」 「馬鹿なこと、——血を流すなど、お嬢さんがくれぐれも言われたはずじゃないか」 「……」  二人はまた睨み合いました。お玉という美しい幻の消え去らぬ限り、二人はどちらも引取ろうとはしないでしょう。 「一人は必ず死ぬ手段がある、貴公は腹の底からその気になれるか」  打越金弥は、何やら思い付いたらしく、改めて念を押しました。 「言うまでもない」  横井源太郎は言下に胸を叩くのです。 「では、しばらく待て、俺に思案がある」  打越金弥は何を考えたか、屏風の奥、さらに重い板戸を開けて、隣の部屋に姿を隠しました。そこは亡くなった小峰涼庵の実験室で、簡単な標本や道具や、おびただしい薬品などが用意されてあったのです。  横井源太郎は取残された形で、しばらく元の部屋に待ちました。夕陽が窓から入って来て、秋の蝿が耳をかすめて表の方へ飛去ります。先生の忘れ形見——多寡《たか》が娘一人を目的に、命がけの争いをつづけて居る横井源太郎には、こうなっては、もはや悔《く》いも躊躇もありません。それほどお玉の値打は、二人の心を囚えてしまったのでしょう。あの滴《したた》る愛嬌、神業としか思えない美しい眼鼻立ち、それに薄紅色にぼかされた皮膚、——それよりも優れているのは、お玉の持っている生れつきの聰明さと、誰にでも隔てなく注ぎかける愛情で、それこそ十か二十の若い男の命を賭けても、少しも惜しくないほどの素晴らしい魅力だったのです。  お玉の好意が、少しばかり、自分に傾いていると思うことが、横井源太郎を全く夢中にさせました。おそらく競争相手の打越金弥も、同じようなことを考えて居たのでしょう。  ややしばらくして、打越金弥は、白い晒《さら》し木綿の布をかけた、手頃の膳を一つ、危なっかしい手付きで捧げて来ました。そして、窓際に置いてあった、経机《きょうづくえ》型の小卓を、部屋の真中に引寄せて、その膳を据えると、緊張し切った手付きで、その上の白い布を取ります。  下から現われたのは、なみなみと酒を注いだ、径四寸ほどの裏梅《うらうめ》の紋の付いた、まったく同型の盃が二つ、 「この盃に覚えがあろう、——加賀宰相様から下された、涼庵先生秘蔵の品だ」 「……」  横井源太郎は、何が何やらわからず、黙ってうなずきました。 「酒は、先日の一周忌の法事の残り、お勝手から持って来たが、それに仔細はない」 「……」 「仔細は俺と貴公の体力の違いだ、力ずくでは、この打越金弥、生れ代って来なければ、貴公——横井源太郎に勝てそうもない」 「……」 「勝負の明らかな博打《ばくち》は、やるべきものではない、そこで思いついたのがこの酒だ」 「……」  横井源太郎はややあせり気味になりましたが、それでも黙って聴いております。 「盃も酒も、見たところ何の変りもないが、この盃の一つはただの酒で、一方には飲んだら必ず死ぬという猛毒が入っているのだ。——貴公も知っているであろう、涼庵先生は先年長崎へ行かれた時、紅毛人《こうもうじん》の手から、鴆《ちん》に百倍するという毒を求めて持って来られた。『毒と聴くと恐ろしいが、薬が毒になることもあり、毒が変じて薬となることもある。従って毒の研究も、本草家の学問の一つだ』と、涼庵先生が言われたことを貴公も知っているであろう」 「……」  横井源太郎は物々しくうなずきました、打越金弥の目論見《もくろみ》が、次第にわかって来るような気がするのです。 「涼庵先生の秘庫を開いて、毒を取出したのは俺、一つの方の盃に入れたのも俺だ、——この二つの盃のうち、貴公はどれでも、好きな方を取って飲むがいい、残った盃は、即座に俺が飲む。——これほど立派な果し合いは、武家の仲間にも類はあるまい、斬り合いは怪我で済むこともあり、両方とも助かることもあるが、この二つの盃のうち一つは猛毒だ、それを呑んだものは必ず死ぬ」 「……」  打越金弥の計画の逞しさに、横井源太郎もさすがに顔色を失いました。この華奢で弱気で、臆病でさえある男が、恋故に盲目になったのかも知れません。 「二つの盃のうち、どちらに毒を入れたか、俺もまったく見当はつかない、なお疑念があるなら、俺が後ろを向いている間に、貴公は勝手に膳を廻し、好きなのを取るがよい」  今となっては、打越金弥の方が、はるかに大胆らしくみえました。もういちど膳の上に白い布を掛け、二三度グルグルと廻して、横井源太郎の前へ、それを突きつけるのです。 「よしッ。貴公のやることを、俺が引込む法はあるまい。この毒酒の果し合いを嫌だと言ったら、貴公はそれを面白そうにお嬢さんに吹聴するだろう」  横井源太郎は、経机の前にいざり寄ると、カッと眼を見開いて、憑《つ》かれたものの熱心さで、二つの盃を睨《にら》み据えました。  朱塗の同じ盃、酒は一合近くも入るでしょう、底に描いた裏梅の金蒔絵《きんまきえ》が、黄金色に盛り上った、酒の表面まで浮いて、いずれが命とりの毒酒とも見当はつきません。が、違ったところが一つありました。横井源太郎の方に置かれた盃の中に、小さい秋の蝿が一匹、死骸になって浮いているではありませんか、毒酒の上を飛んだ蝿か、または毒盃の縁《へり》に留った蝿が、毒気にあてられて、そのまま盃に落ちて死ぬのは考えられることで、そう言った物の考え方から言えば、蝿の死骸の浮いてる方が、毒酒にきまっているようなものです。  横井源太郎の手は、ほとんど本能的に、蝿の浮んでいない方の盃に伸びましたが、何の気なしに、フト挙げた眼に、打越金弥の顔が映ると、その青白い頬に、ほんの一瞬、冷たい笑いが浮んだようにみえたのです。 『これは細工だ』横井源太郎はそう考えると、急に自分の耳がガーンと鳴ります。『これに引掛ってなるものか』そう思ったとたん、横井源太郎の手は、蝿の浮んだ盃を取上げ、無造作に酒の上の蝿の死骸を払い落して、物の見事に盃の酒を呑み干してしまいました。  それと同時に、 「知ってのとおり、俺は酒が好きじゃない、同じ毒酒で死ぬにしても、酒の肴《さかな》が欲しい」  打越金弥は、半分ほど呑み残した盃を膳の上に置くと、大きく一と息入れました。 「贅沢を言うな、末期《まつご》の水に、肴は要るまい」  横井源太郎は、カラカラと笑いながら、立って西陽の窓をしめました。一つはもう廻るはずの毒酒のきき目を試すために、自分の足許を確かめたかったのです。幸い酒に毒は入っていなかったらしく、気分にも足元にも、何の変りもありません。     四  八五郎が明神下の平次の家へ飛んで来たのは、その翌る日の昼前。 「とうとうやりましたよ、親分」 「騒々しい野郎だ、誰が何をやったんだ」  平次は、いつものことで、さして驚く様子もありませんが、八五郎はそれをもどかしそうに、三和土《たたき》の上に地団駄を踏むのです。 「板橋から急の使いで、人死があったからぜひ来てくれるようにということですよ」 「板橋はどこだ?」 「弁天様じゃねえ、——あの百草園のお嬢さんの使いで」 「少し遠いな」 「そんな事を言わずに、行って下さいよ、その代り帰りは王子へ廻って、扇屋であっしが——」 「と言ったところで、相変らずすっからかんだから、何が何でも、お前の心意気に負けて、行かなきゃなるまいな」  ようやく神輿《みこし》をあげた平次ですが、外の風に当ると弾みがついて、まだ昼をあまり廻らぬうちに、加州様下屋敷隣の百草園に着きました。  門と塀だけは相当ですが、中はかなり荒れて、小峰涼庵の死後、何やらモヤモヤした争いと対立のつづいて居ることを物語っております。玄関で大きい声を出すと、 「あ、親分さん方、お嬢さんがお待ちで」  飛んで出たのは、下女のお浅という四十女でした。中へ入ると、長い廊下を半分も行かないうちに、 「ま、八五郎親分、——銭形の親分でしょうね」  迎えてくれたのは、庭の青葉を反映して、顔色は青白く沈んでおりますが、八五郎が全語彙《ボキャブラリー》を動員して形容したほどあって、これは銭形平次にも息を呑ませたきりょうです。地味な藍色の袷、赤い帯揚《おびあげ》がわずかに燃えますが、浮世絵から抜け出したような非凡の姿態で、二人の先に立って、イソイソと奥へ案内するのです。どこからともなく、匂う薬草の数々、縁側に落ちる、青葉の陰影を縫って、急ぎ足に奥へ行く娘の後姿、打ちのめされたような肩のあたりも、白い襟足も、そして、袖や裾の煽《あお》りも、平次に取って、不思議に悩ましい痛々しさでした。  事件というのは、百草園の二青年のうち、年上で丈夫そうで、生一本な性格を持った横井源太郎が、今朝自分の部屋で、冷たくなって死んでいたのを、下女のお浅が見付けて大騒ぎになり、いちおう手当も加えてみましたが、息を引取ってから時が経っているのでどうにもならず、ともかくも床を敷いて寝かしておき、八五郎へ使いを出して、一方、葬いの仕度も急いていると、お玉が自分で説明するのです。  平次は床の側に寄って一わたり調べてみました。死んでいる横井源太郎は二十八歳というにしては老けた方で、身体もたくましく、顔立も立派ですが、決して良い男振りではなく、胸をはだけてみると、毒死した者の特徴ともいうべき、紫色の斑点が凄まじく、表情や身体の歪みなどにも、はげしい苦悶の色がありありと残っております。 「これは毒を飲むか飲まされるかしましたね、お嬢さん」  平次は後ろに慎ましく覗いているお玉を顧みました。 「巣鴨の見庵《けんあん》様も、そう仰しゃいました。ゆうべ夜更けに死んだかも知れないということです」 「身寄りの方は?」 「横井様は親御も兄弟も、何にもありません、この世にたった一人ぼっちだと、平常《ふだん》から冗談のように言っておりました」 「人に怨まれる筋は?」 「さア、それは下男の為吉か、下女のお浅にお訊ね下さいまし」 「これだけの苦しみを家中の者が知らないはずはありません、昨夜どなたか、この人の苦しむのを、聴いた方はありませんか」  平次は死骸の凄まじい表情、苦悩とも憤怒とも恐怖ともつかぬ歪みを見て、家中の者が誰も知らずにいたのが不思議でならなかったのです。  娘のお玉は、黙って頭を振ります。百草園の家は大きく、部屋もたくさんあり、大抵のことは知らずに済みそうにも思えるのですが、ツイ隣の部屋に寝ていたはずの、打越金弥が知らずにいるというのは、お玉に取っても一つの疑問に相違ありません、が改めてそれを言うのは、お玉のたしなみが許さなかったのです。  この美しい娘の側を離れて、平次は庭にウロウロして居る下男の為吉をつかまえました。 「お前は何か知ってるだろう、包み隠しせず、皆んな言わなきゃ、とんだ迷惑をするぜ」  一番ドカンと脅かされると、為吉は平次の前に、ペラペラとやってしまいました、五十前後の欲の深そうな、場合によっては、正直そうな男にも見えます。 「実は親分、きのう大変なことがありました」 「何が大変なんだ」 「用事が早く片付いて、陽の高いうちに帰って来ると、横井様と打越様が、お嬢さんのことから喧嘩をおっ始め、二つの盃のうち、一つの盃のお酒に毒を入れて、運悪く呑んだ方が死ぬ——という、恐ろしい果し合いの最中でした」 「お前はそれをどこから見て居たんだ」 「声を掛けても、二人とも夢中になって返事がなかったので、隣の部屋まで入って来ると、毒酒を真中に、血相変えて果し合いの真最中じゃありませんか」 「お前はそれを止めなかったのか」 「止めたところで無駄ですよ、お互いにあんなに思い詰めているんだから、どうせどっちか死ななきゃ納まりません」 「ひどい事を言うじゃないか、——それで、どっちが毒の入ってる酒を呑んだのだ」 「横井様が呑んだことでしょう、その証拠には死んでいるんですから」  為吉の答は、いかにも簡単です。序《ついで》にお勝手に廻って、下女のお浅に訊いてみると、中年女らしく、達弁にまくし立てます。 「私はお嬢様のお供で、夕方戻って参りました。その時は横井様も打越様もお元気で、それから戌刻半《いつつはん》(九時)近くまで見ておりましたが、お二人とも、少しも変らなかったようです。あの元気な横井さんが、夜半に死ぬなんて、まるで嘘みたいじゃありませんか」 「二人はそんなに仲が悪かったのか」 「昔から仲が悪いようでしたが、先生が亡くなられてからは、まるで犬と猫で、——お嬢様が綺麗過ぎるんですね」  お浅は中年の女らしく妙に覚ったことを言うのです。 「二人の身持は?」 「どちらも遊びなんかしません、お嬢様を手に入れようと夢中だったんですもの。——気性は、打越さんはやさしくて、横井さんは頑固でした。打越さんは男がよくて、横井さんは少し乱暴で——」  お浅の見る二人は、ざっとこんなものです。     五  このとき平次は何を考えたか、もういちど横井源太郎の死骸を調べようと言い出して、庭から縁側へ、そして閉め切ってある障子をサッと開けました、 「……」  不用意に闖入《ちんにゅう》した平次が、ハッと立ちすくんだのも無理はありません。あの打ち萎《しお》れてはいるが、何となく冷たそうに見えた娘のお玉が、たった一人になると、横井源太郎の死骸に取りすがって、断え入るばかりに泣いて居るではありませんか。  物音に驚いて振り返ったお玉は、さすがに間が悪かったものか、あわてて涙を拭くと、そっと立上って、部屋の外へ滑り出そうとするのです。 「あ、お嬢さん、差支えがなかったら、もうしばらく立会って下さい。私は大変なものを見落しているような気がするのです」 「ハ、ハイ」  平次に引留められて、お玉はしずかに部屋の隅に坐りました。 「仏様は、昨夜のまま、着換えをさせなかったことでしょうな」 「ハイ、そんな人手もなし、それに経帷子《きょうかたびら》もまだ間に合いませんので」 「いえ、とがめるわけじゃありません。死骸の足が二本とも、マチ袴《ばかま》の一方に入っているのが変だったんです、死んでから誰か袴を穿《は》かせたことになりますね」 「?」  マチ袴の一方へ二本の脚を間違って入れることは、時々あるはずですが、生きている人間なら、すぐ気がついて穿き直すはずです。 「ともかく、死骸の着物を変えさせるということは、何かワケのあることでしょう、——そう思いませんか、お嬢さん」 「……」  お玉は平次の言葉を聴いて、ヒドく驚きながらも、深々とうなずいた様です。 「それから、死骸の手首と、足首に傷のあるのはどうしたことでしょう?」  平次は先刻からそれに気がついていたのですが、改めて見直すと、手首にも足首にも、ひどい擦剥《すりむき》があって、横井源太郎は死際《しにぎわ》に何か特別の状態にあったこと、——たとえば手籠《てご》めか何かに逢っていたことを物語るようでもあります。 「私にも一向見当がつきませんが」  お玉は覚束《おぼつか》なく顔をあげるのでした。白粉っ気もない顔は、疑惧《ぎぐ》と不安にさいなまれながらも、非凡の浄らかさと、古代の仏体に見るような不思議な媚《こび》を持っているのでした。 「毒害ということがわかり過ぎているので、口中を見なかったが——」  平次はそう言って、死骸の唇を開けさせましたが、上下の歯を厳重に噛みしめて、末期の苦悩の恐ろしさを物語ります。 「これはどうしたことだろう、八」 「何か変ったことでもあるんですか」  八五郎は後ろから、長い顎を覗かせます。 「前歯が二本砕けているよ。丈夫そうな歯だから、自分で歯を噛みしめたくらいのことで、こうなるわけはない」 「その歯の破片《かけら》が、下唇の中に見えるじゃありませんか」  八五郎に言われて見ると、死骸の下唇の中に、ほんの一分ほどであるが、二枚の歯の破片が落ちており、上の歯二枚が、鋸《のこぎり》の目のように砕けて、しかも、唇には何の傷もなかったのです。 「これは大変なことだ、もういちど庭を一と廻りしてみよう、遠くの方に百姓道具を入れた物置小屋があるようだが」  平次は八五郎を促して、もういちど庭へ出ると、そこには下男の為吉が待っていて、イソイソと案内してくれます。五十前後の中老人と言っても、何となく丈夫そうで、労働に馴れた筋骨は、鉄のようにもり上っております。 「親分さん」 「何だえ?」 「お二人は立派な果し合いで、横井様が自分から進んで毒を呑んだとすると、相手の打越様には、罪はないことになるでしょうね」  為吉は妙なことを訊くのです。 「そんな事になるだろうな」  平次の返事は冴えないものでしたが、その頃の通念から言えば、刀で斬り合っても、毒酒を呑んでも、果し合いに変りはなく、町方の御用聞の平次には、それを縛る権利はなかったわけです。  百草園は広いものでした。向うの端にある小さい物置小屋は、母屋からは一町も離れているでしょう。薬草畑の中を行くと、物置小屋の中から、チラと人影、やがて赤いものがほのめくと、それは娘のお玉のあわてた姿で、平次と八五郎を避けるように、小屋の横手から、道を変えて母屋の方へ逃げて行くのです。  平次は黙ってそれを見ておりましたが、諦めたように小屋へ入ると、一とわたりその中を調べました。戸板と縄切れと、おびただしい農具の外には、何にも目に立つものはありません。  一応の調べが済んで母屋へ帰ると、打越金弥が寺へ行って帰ったそうで、秋日和に汗ばんだ身体を拭いておりました。 「打越さんでしょうね」 「左様、——今寺へ行って帰ったばかりだが」  色白の華奢な男で、この男は力ずくではたくましい横井源太郎を殺せるはずはありませんが、何となく才気走って、油断のならぬ感じを与えます。 「横井さんが毒で死んだときまると、果し合いの相手のお前さんにも、掛り合いがあるはずですね」  平次はこう露骨に当ってみました。 「そうかも知れない」 「しばらくどこへも出られないように、改めて御沙汰のあるまで待って下さい」 「心得ている」  打越金弥は悪びれもしません、同僚の横井源太郎の死に対して充分の覚悟はしている様子です。 「念のため、果し合いに使ったという、毒を見せて貰いたいが」 「いと易《やす》いこと」  平次の語《ことば》に応じて、打越金弥は二階の涼庵の部屋から、ギヤーマンの小さい瓶《びん》に入った、油のような水薬を持って来て見せました。 「これに味はあるでしょうね」  平次は瓶の口を抜いて、中の薬液を嗅いでおります。 「匂いはないが、味はある、たいそう苦いということだが——」  打越金弥は、その秀麗にさえ見える額に、皺《しわ》を寄せてみせるのです。 「知らずに呑むようなことはないでしょうね」 「そんな事はあるまいよ、少しでも薬のこと、本草のことなどを心得ているものなら」 「有難う、よくわかりました、滅多なところへおいて二度と間違いを起さないように」 「それは大丈夫」  打越金弥は毒薬の瓶を受取って元の二階へ行くのです。それに別れて、裏口を出て帰り際、平次はフト、 「お浅さんか、ちょいと聴きたいが、横井さんは金がなかったことだろうな、——身寄りも何にもないという位だから」  そこを掃除している下女に訊くと、 「お小遣にも困っていましたよ、お嬢さんが気をきかして差上げても、受取るような方ではなかったんです。それに比べると打越さんは、長崎の実家が良いそうで、時々びっくりするほどお金を送ってくるようです」 「そうか、有難う」  平次は丁寧に言って裏門から出ようとしてフト振り返りました、西側の二階の窓が開いて、こっちを見ているのは、お玉の白い顔に間違いもありませんが、先刻まで素顔だったお玉が、いつの間にやら薄化粧をして、紅さえ含んでいるのが、明るい西陽に照されて、浮き出したようにハッキリ見えるのです。 「八、この先、まだいろいろの事があるかも知れない、お前はときどき見廻りに来るがいい」     六  それから十日ばかり、やがて陰暦の十月も近かろうという、秋らしい日の昼頃、 「親分、またやられましたよ、すぐ行って見て下さい」  八五郎が汗になって飛込んで来たのです。 「誰がどこをやられたんだ」 「下男の為吉ですよ。裏門の外で、土手っ腹をえぐられて、匕首は、為吉本人の物だから、だらしがないじゃありませんか」  道々、八五郎は、平次の問いに対して、簡単に説明してくれました。 「お前は、ときどき百草園を覗いて居たはずだが、外に何か気のついたことはないのか」 「大ありですよ」 「たとえば?」 「娘のお玉さんは、ますます綺麗になって、——もっとも、あの騒ぎがあってから、素顔の好きだったお玉さんが、急に化粧をはじめて、薄化粧に笹紅《ささべに》を含むと、まるで菩薩様みたいですよ、悪くねえ風の吹き廻しですね」 「それから」 「お嬢さんと打越金弥が急に親しくなって、下男の為吉は金廻りがよくなって、毎晩呑んで歩いてばかりいるようで、昨夜も酔っ払って帰ったところを、後をつけて来た泥棒にやられたんでしょう、持っていたはずの懐ろは空っぽだし、一と突きで息の根を止めた手際は、大したものでしたよ」  そんな話のうちに、二人は板橋の百草園に着きました。土地の御用聞がやって来て、大方の始末をした後、事件は極めて簡単に片付けられてしまいました。為吉の死骸は、後ろから一と突き、自分の匕首でやられたもので、鞘も匕首もその場に捨ててあり、ちょうど裏門の外で、仰ぐと二階の窓——いつかお玉が姿を見せたあたりがよく見えます。 「昨夜は月があったはずだな」 「二十三夜で、遅くなって出たはずです」  八五郎が応えました。平次はそれから、娘のお玉にも、打越金弥にも、下女のお浅にも逢いましたが、取立てて証拠になるほどのこともなく、ただ、娘のお玉が八五郎の指摘したとおり薄化粧などをして、美しい上にも美しくなっていることが、平次の眼にも異様に映ります。  生活の単純な為吉には、恩も怨みもあるはずはなく、これは簡単な夜盗の仕業とみて、平次も引揚げる外はありません。が、それから三日経たないうちに、この一連の事件は、とうとう、最後の破局まで行きついてしまったのです。 「た、た、大変ですよ親分、板橋で、とうとう」  三度目に八五郎が飛込んで来たのは、九月も末近いある日の朝のうちでした。 「どうした八、板橋からの御注進にしちゃ、少し早いじゃないか」  平次は何やら待っている様子です。 「百草園のことが気になってならないから、あの近所の知合いの家へ泊って、今朝薄暗いうちに覗いてみたんですよ」 「で?」  八五郎の鼻のよさと熱心さは、平次に取って嬉しいことでした。 「すると、百草園は上を下への騒ぎだ、飛込んで訊いてみると、今度は、あの生っ白い打越金弥が、自分の部屋で死んでいるじゃありませんか」. 「行ってみよう」  平次は手っ取り早く仕度をすると、八五郎を促し立てて、一気に板橋に飛びました。こんな時は疲れを知らぬ八五郎ほど調法な人間はありません。  迎えてくれたのは、今は下女のお浅とともに、この広い屋敷にたった二人残る、娘のお玉、どうしたことか、この間からの、丹青《たんせい》の薄化粧を洗い落し、元の生地の真珠色の肌に還って、紅のない唇は、色を失って蒼くさえ見えるのです。 「御苦労様で、親分」  しずかに案内するお玉の後姿、相変らずに美しい線ですが、今日は赤い扱帯《しごき》さえ見せぬ淋しさです。 「……」  打越金弥の部屋の中は、思いのほか整頓して、畳の上に崩折れた死骸も、不断着の着流しのまま、引起してみると、胸から顔へかけての凄まじい斑点、横井源太郎と同じく、南蛮物の毒による毒死に間違いもありません。 「昨夜の様子は?」  平次はお玉を顧みました。 「上機嫌で、歌などを口ずさんでおりました、部屋へ引取ったのは戌刻半《いつつはん》ごろ」 「今朝は?」 「お浅が見付けて大騒ぎになったのでございます。でも、このとおり私とお浅の二人きり、近所も身寄りもなく、手のつけようもございません」  お玉はしずかに語るのです。 「お浅を呼んで下さい、少し訊きたいことが」  平次に頼まれると、お玉はソワソワと引込んで、代りに下女のお浅がやって来ました。 「御用で?」 「少し訊きたい、お嬢さんは近ごろ打越金弥さんと仲が好かったそうだな」 「ヘエ、少し変だと思いました、以前は横井様の方に親しかったお嬢様が、近ごろお化粧なんかなすって」 「昨夜は?」 「不思議なことに、宵からお嬢さんは、打越さんと仲よくお話をしていらっしゃいました。私は御免を蒙って、早く休ませて頂きましたが」 「そんな事でいい」 「ヘエ」  下女のお浅が引下がると、平次はもういちど打越金弥の死体に近づきましたが、特にその口のあたりから口中を念入りに調べたうえ、八五郎を振り返ってこう言うのです。 「八、俺にはもうわかったよ、お前にも気がつくだろう、よく見ておくがいい」  そう言われて八五郎も、死体の口のあたりを見ておりましたが、 「男の癖に、この野郎口紅なんか付けていますね、死体の唇が、こんなに赤いはずはありませんよ」 「それっ切りか」 「あ、これは鬼灯《ほおづき》じゃありませんか、いよいよもって変な男ですね」  八五郎は打越金弥の口の中から、大きくて赤い鬼灯を一つ——中は空っぽになっているのを、指先でつまみ出しました。 「それでお仕舞いさ、さア、帰ろうか、八」  平次はもう立上って帰り仕度をするのです。 「下手人は親分?」 「横井源太郎の幽霊とでもしておけ」 「ヘエ?」  母屋を出て、お勝手から裏門へかかった平次は、そっと二階のあたりを振りかえりました。いつもの窓から、チラリと人の影、お玉の涙ぐんだ顔だったことは、咄嗟《とっさ》の間に平次にはよくわかります。     *  道々八五郎のせがむままに、平次はこう説明してやるのです。 「横井と打越の二人の弟子は、師匠の娘お玉を争って、毒薬の果し合いになった、そのとき悪智恵のまわる打越は、二つの盃のうち、毒のない方に蝿の死骸を入れておいたのだよ、盃を横井に先に取らせると、間違いもなく、蝿の入って居る方を避けるに違いないと思ったのだ。蝿の入っている方はただの酒で、蝿も何にも入っていないのが毒酒だ」 「……」 「ところが、当てが外れて、横井源太郎は蝿の入っている方を呑んだ、——そんな気の張った時は、相手のチョイとした眉の動きでも、稲妻のようにこっちの心に響くものだ。打越は当てが外れた、が、そんな事もあろうかと用意した打越は、毒酒を呑むとみせて、懐に忍ばせた手拭に吸わせてしまった」 「太え野郎ですね」 「その上、果し合いに卑怯なことのなかったことを見届けさせるために、生き証人として、下男の為吉を隣の部屋に隠し、そっと一部始終を覗かせておいた」 「その晩、横井が死んだのは?」 「夜半に横井をおびき出したのだよ、お玉の使いとか何とか言って、庭の物置におびき寄せ、打越と為吉の二人で、横井を縛り上げ、戸板を背負わせて猿轡《さるぐつわ》を噛ませたに違いあるまい、横井は少しくらい力があったところで、為吉と打越の二人には叶わない」 「毒は?」 「戸板を背負わせて寝かした横井の口を、鑿《のみ》か何かで無理にコジ開け、あのギヤーマンの瓶から毒薬を横井の口中に滴《たら》し込んだに違いあるまい、横井の前歯が二本欠けていたのはそのためだ」 「ヘッ、ずいぶんひどい事をやったものですね」  することの残酷さに、八五郎も胆をつぶしました。 「死骸の前歯が砕けているのを見て、娘のお玉さんも気が付いたに違いあるまい、俺達より先に物置に飛んで行って、鑿を隠してしまった」 「すると、あの娘は打越に気があって?」 「いや、打越を庇《かば》う気でなく、自分の手で横井の敵《かたき》が討ちたかったんだ。——娘のお玉さんは、心の中では、あの生一本で正直な横井源太郎に惚れていたのだよ、——二十二まで一人でいたのは、横井の言い出すのを、ジッと待っていたためだろう。——どうかしたら、打越金弥が二人の間の邪魔をしていたのかも知れない、——お玉にいろいろ嫌がらせをやって、ちょうどいいところで自分が助け舟を出してやろうと言った魂胆もあったようだ」 「下男の為吉を殺したのは?」 「打越金弥だよ、さいしょは金をやって、横井源太郎殺しを手伝わせたが、だんだん強請《ゆすり》がひどくなったので、一と思いに殺したのだ、殺された為吉の匕首でやったのはその証拠だ。酔っ払って夜更けに帰ってくる為吉を待ち構え、馴馴しく傍へ寄って、為吉の部屋から持出した匕首で、後ろからやったに違いあるまい」 「……」 「お玉は二階の窓から、月光りで、それも見て居たことだろう、ちょうど、毎日毎日、隙さえあれば打越金弥に付きまとわれ、口説き立てられている折でもあり、昨夜という昨夜、なびくと見せて、口から口へ、——打越金弥の上《のぼ》せあがった口へ、毒を仕込んだ鬼灯を含ませ、はっと思う間もなく、娘の唇で男の唇を封じてしまったことだろう、金弥の唇に口紅の付いて居たのはそのためだ。——鬼灯はすぐ死骸の口から取出せないはずはないが、打越金弥が呑込んでしまったかも知れず、また、嫌な男の死骸の口などへ、さわるのが気味が悪かったのだろう」 「ヘエ、怖いことですね」  八五郎も妙に寒気がします。 「若い女が一生懸命になると怖いよ、気をつけろよ、お前も、うっかり娘からしゃぶりかけの鬼灯なんか貰ったりすると」 「ヘッ、ヘッ、あっしは死んでみてえ」 「あんな野郎だ」  カラカラと笑いながら、赤トンボの飛び交う本郷通りを神田明神下へと急ぐ二人でした。  飛ぶ若衆     一 「姐《ねえ》さん、谷中《やなか》にお化けが出るんだが、こいつは初耳でしょう」  松が取れたばかり、世間はまだ屠蘇《とそ》臭いのに、空っ風に吹き寄せられたような恰好で、八五郎は庭木戸へ顎を載せるのでした。 「ま、八さん、お早ようございます」  お静はそれでも、襷《たすき》を外して、縁側の上から、尋常に挨拶するのでした。朝の仕事が済んで掃除して居るところ、淡い陽射しが足もとを這い上って寒々とした風情の中に、わずかに赤いものを着けたお静のたたずまいが、なんとなく四方の空気を和《なご》めます。 「八か、脅かすなよ、お化けや借金取りは親類付合いをしているから驚かねえが、お静が胆をつぶして障子を開けたままだから、縁側の埃《ほこり》は皆んな部屋の中へ逆戻りだ」  平次は長火鉢を抱え込むように、無精煙草《ぶしょうたばこ》の煙を吹いております。 「脅かすわけじゃありませんが、女はどうしてこうもお化けが嫌いなんでしょう、お、寒ぶ」  八五郎はその障子の隙間から、弥蔵《やぞう》〔ふところ手〕をこしらえたまんま、長火鉢の側ににじり上がりました。 「朝っぱらから、そんな話を持込むからだよ。第一縁側から入って来るのは、猫の子とお前ばかりじゃないか。たまには表へ廻って、案内を頼む心掛けになってみろ」 「ヘッ、こっちの方がいくらか近いようで」 「呆れた野郎だ」 「ね、親分、あっしの伯母さんだって、やはり女の子でしょう」 「当り前だ」 「その伯母が、谷中へ泊り込みでお仕事に行って、この話を聴き込んで、胆をつぶして帰って来たんですが、惜しいことをしましたよ。お化けと取っ組む気で、もう少し聴き込んで来ると、こいつは良いタネになりそうですが」 「俺にお化け退治をさせようというのか。そんな話なら御免蒙るぜ、八」 「でも人助けになるじゃありませんか。大きく言えば、それ笹野の旦那がよく言う天下|静謐《せいひつ》のため」 「大きく出やがったな」 「だから、ちょいと、冗談に覗いてみませんか。何しろ相手は谷中三崎町で、大地主の娘、谷中小町と言われた——」 「嫌だよ。大地主と小町娘じゃ、筋書が揃い過ぎるじゃないか。そのうえ化物退治と来ると、そっくり岩見重太郎の世界だ」 「それはどこの岡っ引で?」 「いよいよもってお前は長生きをするぜ」 「ヘッ、どなたも、そう仰しゃいます。ところで煙草を一服」 「あれ、煙管《きせる》の催促をして居るのか」  話はこんな調子で始まりました。八五郎の持って来た、谷中のお化けの話、平次は一向気の乗らないような顔をしながら、それでも合の手だくさんに、熱心に聴いております。 「伯母が頼まれて行ったのは、谷中三崎町の細田屋善兵衛の家で、二月になると、一人娘のお蘭《らん》さんに養子婿が来ることになって居るので、金に飽かしての花嫁衣裳だ」 「……」  平次は黙ってしまいました。八五郎の話はどうやらレールに乗った様子です。 「しばらくは泊り込みの約束で、向柳原は鼠に引残されたように、あっしがたった一人、淋しいのは構わねえが、三度のものの用意に困りましたよ。飯だって三日分炊けないこともないが、この寒さだから——」 「おいおいそれもお化けの話のうちか」 「ヘッ、少しばかり寄り道をしたんで。こう吹聴して置くと、姐さんは思いやりがあるから」 「ま、八さん、その間だけでも、ここへ来て泊って下さればいいのよ」  お静はあわてて、お勝手から顔を出しました。 「放って置け。伯母さんが留守番に置いてあるんだ。飯を三日分ずつ炊く方が悪いじゃないか」 「まア、そんなことで、もっとも、日に三度も店屋物《てんやもの》を取っちゃ、あっしの身上《しんしょう》が保《も》たねえ」 「それからお化けはどうしたんだ」 「あ、忘れちゃいけねえ、——細田屋の奥座敷、伯母は花嫁道具の番のように、次の間の六畳に寝た。一と間置いて娘のお蘭の良い匂いのする桃色の部屋、同じ六畳、有明《ありあけ》がぼんやり、夜中に眼がさめたが、それっきり寝付かれない、どこからか冷たい風が入って、ヒソヒソ話の声が聴える」 「……」 「どうも、隣の嫁入道具の部屋のような気がして、伯母はますます眼が冴えてしまった。小用にでもと思ったが、戸惑いして道をまちがえてしまったらしい。それでも家の人に眼を覚まさせちゃ悪いと思ったから、抜き足差し足、灯《あかり》の見えるところを目当てに行くと、廊下に向いた障子が細目にあいて、中はかねて見覚えの娘の部屋、行灯《あんどん》に小袖を掛けて、灯先《ひさき》がぼんやり、紅絹裏《もみうら》をはね退《の》けた床の中を照して居る、——その中に居たのが、なんだと思います、親分」  八五郎は声を殺して、少し仕方話《しかたばなし》〔身振りを交えての話〕になりました。 「三つ眼小僧か、それとも」 「眼のさめるような、綺麗な若衆ですよ、親分」 「それなら驚くことはないじゃないか」 「それが、その、娘と寄り添って、頬と頬と斜めに、古風な色模様じゃありませんか、——お前今度はいつ来るえ?——こう人眼につくようでは繁々《しげしげ》も来られない、次はお月様が出なくなってから、——いや、いや、いや、私はもう、——」 「なんだえ、それは?」 「娘と若衆の声色《こわいろ》」 「見て来たようじゃないか」 「伯母さんの受け売りですよ。娘のお蘭さんは、若衆の来るのを待っていた様子で、それはそれは綺麗だったということですが、若衆の美しさはまた格別で、良い年をした伯母までが、うっとりしてしばらく眺めて居たというから大したものでしょう」 「……」 「二人とも小さい声ではあったけれど、男の方の声は、陰に籠って、こう色っぽくて甘ったるい癖に、何となくゾッとしたというのも無理はありませんね」 「その男が化性《けしょう》の者だとでもいうのか」 「それに違いありませんよ、前髪立ちで紫色の振袖を着て、色が抜けるほど白くて、唇は真赤だったというから、芝居の色小姓でも無きゃ、そんな者が居るわけはありません」 「でも、それだけじゃ人間でないとは言えないぜ」 「ところが大変なんで、伯母がツイ大きな音を立てると、怪物《えてもの》はサッと部屋の中から飛出したそうです。その早いことというものは、とても人間業ではなかったそうで、そのうえ雨戸をあけて縁側から外へ出たと思うと、いきなり空中に飛上って、恐ろしい頑丈な忍び返しの上をフワリと飛越し、どこともなく姿を消してしまったそうで」 「フーム」 「伯母は胆をつぶして、思わず悲鳴をあげようとすると、その後ろかちそっと口を押えて、——『静かに、後生だから』——と囁くのは、当の相手のお嬢さん、お蘭さんだから驚くじゃありませんか『あれは何です、お嬢さん』と歯の根も合わぬ伯母を、——『あれは人間ではない、お願いだから、誰にも言わないで』——と、お嬢さんは可愛らしい顎の下で、そっと手を合せたんですって」 「で、それからどうした」  平次もどうやら、事件の重大さに気が付いた様子です。 「本人が承知で、化性《けしょう》の者と逢引して居るんなら、伯母が口を出す筋合いはありません。そのまま自分の床へ帰ったが、さア、寝付かれる沙汰じゃありません。翌《あく》る日の朝、そっと起きてみると、縁側から庭へ、得体の知れない、獣物《けだもの》の毛が一パイ」 「まア、怖い」  お静はその話を聴いて居たものか、たまり兼ねてお勝手から顔を出します。 「それから?」  平次はその先を促しました。 「もう、そんなところに我慢して居る気にもなれず、伯母はその日のうちに、なんとか、うまい言いわけを拵《こしら》えて、向柳原の家へ戻ってしまいました。お蔭で私は、今朝からまた暖かい飯にありついたわけで、こうなると|けえだん《ヽヽヽヽ》話も満更じゃありませんね」 「誰もお前の朝飯のことなんか訊いてやしないよ——それで伯母さんの話は皆んなか」 「まだまだ話は一と晩つづきましたよ。お嬢さんのお蘭さんの綺麗だったこと、お化け若衆の滅法美しかったこと、嫁仕度の大層だったこと、それから、そうそう、いざお暇《いとま》をして帰ろうというとき、下女のお信を蔭へ呼んで、そっとその話をすると、何もかも呑込んでいる様子で、——そんなことを言ってはいけない、大変なことがあるんだから——と堅く口留めをされたということです」 「フーム」 「これはいったい何でしょう。お嬢さん当人もお化けを承知の上で逢引して居るようだし、下女も感付いて居るに違いないから、両《ふ》た親だって知らないはずはありません」  八五郎は長い顎をまさぐるのでした。その頃の人のように、八五郎自身もまた迷信からは脱けきれません。     二  それから十日ほど経って、二十日正月も近いある日の朝、 「さア、大変だ、起きろよ、八」  銭形平次の方から、向柳原の、伯母の家の二階へ声をかけました。 「親分、お早よう。何が大変なんです」  八五郎は二階の障子を開けて、格子越しにまだ寝起きの悪そうな顔を出します。 「その恰好をあの子に見せたいな。早く顔でも洗って出て来い。何しろ大変だ、谷中から飛んで来たんだ」 「なんです、それは?」 「細田屋の娘が殺されたとよ」 「えッ」 「それね、お前だって驚くだろう。根津の喜三郎が、わざわざ子分をよこしたんだ。こいつは六つかしそうだから、すぐ来てくれ、とね、ところが細田屋の娘のことは、お前にも掛り合いがあるから、誘いに来たのさ」 「そいつは有難い」 「伯母さんにも訊きたいことがあるんだ。その間に仕度でもしろ」 「待って下さいよ親分」  八五郎が仕度をするあいだ、平次は伯母さんをつかまえて、なにかと質問します。 「そうですね、たった三日のことですから、私はなんにも知りませんが、でも、あのお嬢さんは綺麗でしたよ。魔がさしたんでしょう。節分が済めば、すぐ祝言をさせたいという話でしたが」  八五郎の伯母は、平次の問いに、気易く答えますが、年のせいで、話はいくらか廻りくどくなります。 「お嬢さんは本当に綺麗でしたよ。細っそりして、いくらか淋しい顔立でしたが、それでもお品があって、——お婿さんは、山下の越後屋の次男で、三之助さんという人が来るんだそうですが、これも良い男だそうで、私は見たことはありませんが、下女のお信さんがそう言っておりました。あの晩のことは何がなんだか、私にはわかりません。ともかく、この世の中に、あんな綺麗な殿御があるはずはなく、それに私の立てた物音に驚いて、庭から忍び返しの上を、鳥のように飛んだのは、唯事じゃありません。それに、あの毛だって」  伯母さんの長広舌《ちょうこうぜつ》がつづくうちに、八五郎の仕度は出来上りました。 「さア、親分、それじゃ一と走り」  もう先に立って駈け出す八五郎です。  谷中三崎町の細田屋は、老木と坂と、幾つかの祠《ほこら》の蔭になったような家ですが、厳重な忍び返しの内の構えは、なかなかに堂々としており、さすがに界隈の大地主として、豊かな暮しを思わせます。  表の格子戸は一パイに開けて、近郷の人や親類やら、何をするともなくザワザワとしており、冬の日向に開け放った縁側には、引っ切りなしに人が往来しております。 「お、銭形の親分、ちょうどいいところだ。御検死は済んだばかり、入棺の前に、銭形の親分に見せて置きたい」  根津の喜三郎という顔の良い御用聞ですが、近頃ではもう、銭形に盾をつく者も少くなり、かえってその智恵を借りて、手柄争いの嫌いな平次に埒《らち》をあけて貰うのが、賢こいことにされて居るのでした。 「それじゃ、頼むぜ」  平次と八五郎は、根津の喜三郎に案内されて奥の部屋に通りました。店から居間、仏間、主人夫婦の部屋、それから納戸《なんど》を隔てて、八五郎の叔母の泊った部屋で、その先が嫁入道具の積んである八畳、その次が娘のお蘭の部屋で、番頭の敬太郎は小僧の春吉と一緒に、裏の小さい離屋《はなれ》に休んでおり、下女のお信は、お勝手の側の、主人夫婦の部屋と廊下を隔てた四畳半に休んでおります。  主人夫婦は、近い親類らしい二三人と、娘の部屋におりましたが、銭形平次の顔を見ると、一礼して皆んな引下がり、残るは、喜三郎と平次と八五郎だけ。 「こいつは可哀想じゃありませんか」  死顔に掛けた晒布《さらし》を取って、八五郎の声は曇ります。十九の厄《やく》が過ぎたばかり、骨細で華奢で、いちおう淋し気ではありますが、それがまた非凡の魅力で、なんかこう病的な美しさが、人の心をかき立てるのです。  少しむくんで見えるのは、紐で絞め殺されたせいでしょう。その紐はお蘭の下締《しもじ》めで、解けたまま投げ出してありますが、床へ半分かかって真っ赤に燃えるのも、不気味というよりは、艶《なま》めかしくさえ見えるのでした。  着物は派手な長襦袢《ながじゅばん》のまま、少しの着崩れもないのは、まだ寝なかった証拠で、どうかしたら下手人は、お蘭の前棲《まえづま》くらいを、直して行ったのかもわかりません。  傷と言っては、玉の首筋に、醜くく紐の跡が残って居るだけ、いかにも美しい人形でもそっと置いたように、床の上に安置されているのでした。  部屋の調度は豪勢で、細田屋の愛娘にそそがれた、両親の愛情の深さを示しますが、いっぽう町人の増長でなければ、娘お蘭の並々でない我儘《わがまま》と賛沢の現われと見えないこともありません。 「銭形の親分さんだそうで、とんだことでお世話になります。どうぞ娘の仇を——」  細田屋善兵衛はそう言って絶句しました。六十前後の一と掴《つか》みほどの老人で、利には敏《さと》くも、気力も体力もはなはだ心細い仁体《にんてい》です。  その老人の背後から、そっと顔を出したのは、お蘭の母親のお伊能《いの》で、これはまだ五十になったばかりですが、年のせいかひどく脂が乗って、白豚のようにムクムクしておりますが、いかにも子に甘そうで、娘のお蘭を制御することなどは思いも寄らなかったでしょう。 「なんか思い当ることがあるのかな御主人」  平次はともかくも、この父親から精いっぱいのことを引出そうとしている様子です。 「別に取立てて申すほどのこともございません。娘は二月早々婿を取ることになっておりますが、近頃は妙にソワソワして、腑に落ちないことばかりございました」 「腑に落ちないというと?」 「山下の越後屋さんの倅を、婿養子にすることに決まっており、娘もそれを承知しておりますのに、この暮れあたりから、娘の様子が変で」 「?」 「ね、お前さん、はっきり申し上げた方がよくはありませんか。世間様の思惑より、今となっては、死んだ娘の敵を討つ方が大事で」  白豚のお内儀は、主人の善兵衛よりはしっかりものらしく、そっと側から入れ智恵をするのです。 「そう言えば、そうかも知れないが、なんと言っても、何代も伝わった、細田屋の暖簾《のれん》も大事、それに、越後屋さんにも済まないわけで」  主人の善兵衛はまだ愚図愚図しているのです。 「わけがあったら、話す方がいい。せっかくの手掛りを教えないために、人殺しの下手人を逃しちゃ、お嬢さんも浮ばれまいぜ」  平次は穏かに促しました。 「実は親分、——娘のところには、変な男がときどき通って参りました」 「嫁入り前の娘にか」 「私もそれを心配しましたが、娘へときどき通って来るのは、他ならぬ婿と決っている、越後屋の三之助と判って、叱ることもたしなめることも出来ません。この上は一日も早く祝言をさせて、世間様の噂にならぬようにと、そればかり心配をしておりましたが、せめて十九の厄が過ぎてからとか、嫁入の仕度がまだ出来上がらないとか、そんなつまらない事を申して、こんな事になってしまいました」  主人善兵衛の非難は、女房のお伊能の方に向いて行くのです。 「そんな事はありませんよ、お前さん。越後屋の三之助さんなら、今日すぐでも祝言させたいと思いましたが、近ごろ娘のところへ忍んで来るのは、ありゃ狐か狸か、ともかくも魔物に違いありません。若い娘が蛇に見込まれたとか、よくある話じゃありませんか。うっかり祝言をさせて、それが人外《にんがい》のものとわかったらどうします。だから私は、修験者に頼んで、加持《かじ》でもして貰ったらというんですけれど、お前さんは、世間体ばかり気にして、こんな事になったじゃありませんか」  内儀《おかみ》は思いのほかに達弁でした。主人善兵衛の煮え切らないのが歯痒《はがゆ》かったのか、正面きって畳みかけるのです。     三 「そいつはワケがありそうだ。詳しく聴こうじゃないか」  平次は八五郎の伯母から聴いた話を思い合せて、膝を進めるのでした。 「娘の恥でもあり、私どもにしても気味の悪いことで、今まで人には申したこともありません。が、この前から娘へ通って来る者は、飛行自在と申しましょうか、私などが正体を見届ける積りで、そっと覗くと、縁側から宙を飛んで、忍び返しの上を、往来へ逃げてしまいます。そのうえ翌る朝見ると、獣物の毛で一パイ」 「……」 「念のために、縁側から庭へ灰を撤《ま》いてみましたが、これも翌る朝見ると、気味の悪い足跡だらけになっております。世間様へ知らせることは申すまでもなく、奉公人にも聴かせたくないことで、私と女房だけで胸を痛めておりました。娘へ意見がましい事を申してもみましたが、身体が華奢なくせに、おそろしく気の強い娘で、——死んでしまった娘のことを、かれこれ申したくもありませんが、——何か気に入らぬことを言うと、三日も四日も口もきかず、箸も採らず、私どもをさんざん手こずらせた上、たった一人娘のことですから、こっちから御機嫌を取るようにして、どうやら物を言わせ箸も採らせる始末でございました」 「奉公人達で、娘とわけても親しい者はなかったのか」 「下女のお信だけは親しく口をききました。なんとも持て余した娘ですが、なまじっか綺麗に生れついて、世間ではチヤホヤ申しますし、私どもも一人娘で天にも地にも掛け替えがございません。我儘がひどくなればなるほど、不憫《ふびん》さが加わって、——浅ましいことでございます」  主人善兵衛は声をあげて泣くのです。 「それで、昨夜のことは」 「なんにも存じません。今朝になって家内が娘が殺されたことに気が付いた有様で」  これが善兵衛から引き出せた全部でした。なお念のために、 「山下の越後屋の息子を養子にすることは、どちらから望んだことで、お仲人は?」  内儀に訊くと、 「越後屋さんの方から話がございました。仲人は越後屋さんの遠縁の方で」 「そんな事でよかろう。少し奉公人達に逢ってみるとしようか」  主人夫婦に別れて、平次はお勝手の方へ入って行くと、さっそく下女のお信をつかまえました。三十六七の達者そうな女で、不きりょうではあるにしても、仕事の方は自信がありそうです。 「勤め心地はどうだ」 「皆さんよくして下さいます。申し分はございません」 「お前の請人《うけにん》や国許は?」 「木更津に叔父がおります。請人は下谷の遠い親類で」 「亭主はないのか」 「やくざでわかれてしまいました」  細田屋の手当は年に三両だが、貰いが多いから申し分のない奉公であること、それから、 「お嬢様は良い方でした。我儘と申しても御大家の一人娘ですもの、あれくらいのことは」  と弁解するのです。 「お嬢様へ通って来る者のあったことを、お前は知っていたそうじゃないか」 「そんな事を知りゃしません。私の部屋はお勝手の側なんですもの」 「本当か」 「なんか気味の悪い事はありましたけれど」  お信は言葉を濁しますが、それ以上追及したところで、堅く口を噤《つぐ》むだけのことです。 「毎晩の戸締りは誰がするんだ」 「番頭の敬太郎さんでなきゃ、私がいたします」 「外から誰でも開けられるのか」 「それじゃ戸締りになりません、——もっとも番頭の敬太郎さんと小僧の春吉どんは、夜中にどんな用事があるかわからないので、隠し鍵を知っております。隠し鍵と言ったところで、納戸の格子の五寸釘で、外からはちょっと見えませんが、格子から手を差し込んで、釘を一本抜くと、外からでもそっくり格子が外れます」 「それはいいことを聴いた。ところでもう一つ、越後屋の倅は、どんな引掛りで、この家へ婿に来ることになったのだ。谷中と山下では、朝夕顔を合せるところでないし」 「それにはわけがあります。旦那はあんなにみえて、たいそう芝居が好きで、谷中から上野下谷あたりまで手を伸ばして、素人衆の芝居の好きな方を集め、毎年一度ずつは池の端あたりの貸し席で素人芝居をいたします。その役者になるのが、谷中では番頭の敬太郎さん、山下の越後屋の三之助さん、それにお嬢様が振事をなさいます。いつともなく三之助さんがお嬢様を見染め、たってというので、婿養子になることになりました。毎年の素人芝居は、入費が大変ですが、衣裳万端、旦那様の持ちで、土蔵には小道具まで用意してあります」  そんな事もあったのであろう。江戸の町人達の芝居好きは、分別や思慮を超えての一つの道楽だったのです。  下女のお信の話はそれ位にして、平次と八五郎はそこから表の方へ廻りました。 「俺は山下の越後屋を覗いて見る。お前はここをもう少し見張ってくれ。家の者の出入りを気をつけるんだ」 「ヘエ」 「おや、俺達がここへ来たあとで裏口で下女のお信と話をして居るのは、ありゃ誰だえ」 「たいへん親しそうじゃありませんか、春吉に訊いて来ましょう」  八五郎は飛出しましたが、まもなく戻って来て、 「あれがお蘭の養子になるはずだった、山下の越後屋の息子だそうですよ、——許婚《いいなづけ》の約束はあっても、祝言をしたわけじゃないから、改めて顔を出したものか、どうか、迷って居る様子で」 「なるほどそんな事もあるだろうな」  平次は表から廻って、家を一と廻り、帰って行く越後屋の倅の前へ、ピタリと立ち停りました。 「越後屋の三之助さんだね」 「えッ?」 「心配することはない。俺は明神下の平次さ」 「あ、銭形の親分」  それは、いかにも良い男の若旦那でした。柄の小さい、二十三四、顔色は浅黒い方ですが、キリキリとして、実行力がありそうです。 「訊きたいことがたくさんある、——今お前さんの家へ行こうとしていたが——」 「私も申上げたいことがたくさんあります」  御用聞と若旦那と、肩を並べて、三崎町の往来を、上野の方へ辿《たど》りました。春の陽は少し傾いて、薄寒くなりかけましたが、木立の葉の間から、桜の花がチラホラするのも、お山近い風情です。 「お前さんは、細田屋のお蘭さんを見染めたというが——ズケズケ物を言って済まないが、そのお蘭さんが殺されているんだから、手っ取り早く、何事も隠さずに話してくれ」 「よくわかっております。——お蘭さんとは二三年前からの知合いですが、去年の春、池の端の素人芝居から急に懇意になって、両親に承知させたうえ、仲人を頼んで申入れました。幸い細田屋さんも、身上も年も、釣合が良いからと承知をしてくれ、さて祝言となると、厄年だから、来年の二十四日|二十歳《はたち》になるまで待ってくれ。その間に少しは着物の仕度もしたいからと、細田屋さんの方からのお話で、私もそれでもとは申し兼ねて、一年だけ祝言を待つことになりました」 「……」 「好きな同士が、一年もお預けを喰うのはどんなものでしょう。親分方は御存じないかも知れませんが、私とお蘭さんに取っては、本当に一日が千秋です。焦《や》きつくような心持で待って居ると、フトしたことから、お互いに手紙をやり取りすることを覚えてしまいました。手紙の使いは、細田屋さんの方は小僧の春吉、私の方からは私の家の小僧の久松、——さて手紙などをやり取りしてみると、かえって心持を煽《あお》られるだけで、もう一日も我慢がなりません。とうとう二人は、しめし合せて、月に一度か二度、細田屋さんの家で逢引することになってしまいました。日を定めて行って、塀の外から合図をすると、お蘭さんが戸を開けて引入れてくれ、そっとお蘭さんの部屋へ入って、一刻《いっとき》ほどして、山下の私の家へ帰ります。私の家のものも、夜中に私がそっと抜け出すのは気がつかなかった様子です」 「……」 「ところが、変なことになりました」 「変なこと?」 「お蘭さんは、去年の暮れから、急に私に逢うのは、困ると言い出したのです。私を嫌いなわけはありません。それはもう、お蘭さんの心持はよくわかって居ります。私の口からこんな事は申し上げ憎いのですが、お蘭さんは私を好きで好きでたまらない様子でした」 「……」  平次も少し当てられましたが話の腰を折っても悪いと思ったか、苦い顔もせずに黙って後を促しました。 「お蘭さんは、本当に腹の底からの芝居好きで、私の舞台顔がどうしても見たいと言い出し、ずいぶん困らせられました。いかに私が大胆でも、若い娘と逢引をして居るのに、紅白粉で舞台顔も造れず、よしやまた、化粧をするのは構わないとしても、その顔で谷中から、山下までは帰れません」 「……」 「お蘭さんの、こう言った、人困らせの我儘が、お蘭さんの可愛いいところで、私もたいていの無理は聴きましたが、この舞台顔を拵《こしら》えることだけは、勘弁してくれと言い、どうにかそれで過しましたが、去年の秋頃から、急にお蘭さんが——危ない逢引をしていて、万一人様に見られても悪いし、親に知れても面目ない、祝言まであと三月、待って居られぬはずはないから、しばらく忍んで来るのを止してくれ、とこう言うのです」 「……」 「さいしょはお蘭さんが心変りをしたのではないかと、口説きもし、腹も立てましたが、お蘭さんが泣いて頼むのを見ると満更そうでもないらしいので、私もしばらくの我慢をすることにきめ、時々は手紙だけをやり取りして、去年の暮れからズーっと逢わずにおりました。——そのお蘭さんが、人に殺されたというのはなんとしたことでしょう」  越後屋の三之助の嘆きは真剣で、嘘も作為もありそうには思えません。     四  平次の足はもういちど店の方に向きました。そこには若い番頭の敬太郎が、なにかと応接しているのを見付けると、そっと裏の方へ呼んで、 「お前は敬太郎と言ったね」 「ヘエ」 「この家へ奉公して何年になる」 「もう八年になります、——親は目黒で、百姓をしておりますが、私も二十五ですから、お暇《いとま》を頂こうと思いながら、ツイ申しそびれております。もっとも申し分のない御主人で、その上お手当もたくさん頂いておりますし、後の御店の不自由を考えると、強いてとも申し兼ね、ツイ根が生えてしまいました」  ヒョイと顔をあげると、少ししゃくれた色白で、余り良い男ではありませんが、眼鼻立ちは大きく、なんとなく物柔かで弁舌も爽やかです。 「お嬢さんのことで、なんか気のついたことはないのか」 「別に、——もっとも若くてお綺麗でしたから、少しは我儘もあったわけで、旦那様御夫婦もそれがまた可愛くてたまらない様子でございました」 「養子になるはずの越後屋の息子をどう思う?」 「良い方で、私もあんな御主人に来て頂けば、張合いがあると思っております」 「芝居がたいそう上手だそうじゃないか」 「あの辺で比《なら》ぶ者もない美男で」 「お前達は、毎晩どうして居る」 「小僧の春吉どんと二人、亥刻《よつ》(十時)前には、離屋《はなれ》へ引取ります。離屋と申しても物置のちょいと手を入れた部屋で、四畳半一と間きり、私と春吉は物の間に挾まるように、頭と頭を突き合せて寝ております」 「それは窮屈なことだな」  これでは夜半に脱け出して、娘を殺すわけには行きません。  それから小僧の春吉を呼んで参りましたが、これは十四の大柄な少年で、食うことの外には大して楽しみも無さそうです。唇の角がただれ、眼が少しトロリとした様子が、あまり賢こそうではありません。  家族というのはこれで全部、平次と八五郎は、根津の喜三郎に案内させて、大して広くない庭を一と廻りしました。老木の多いところで、 「あの木へ飛付いて逃げ出す工夫はありませんか」  八五郎は巨大な榎《えのき》が、塀の上へ見越入道のように生い冠《かぶ》さって居るのを指さすのです。 「やって見るがいい、縁側から忍び返しを越えて、あの大枝に飛付くとすれば、五六間はあるだろうな。ちょいと天狗様でもなきゃ」  平次は縁側から庭を越えて、塀の外の榎の大枝までを、眼で測っております。 「あの大枝に縄でも引っかけて、飛付く手は無いものでしょうか」 「大枝に綱をかけて縁側から飛び付くと、枝に手繰《たぐ》りつく前に、塀に身体を叩きつけられるよ」 「やはりいけませんかね」 「塀の外は小さいお稲荷様の堂だ。屋根に登って踏台には——もったいなくも、これは少し遠いよ——手軽に片付けちゃいけない」  平次はグルリと家の周囲を一と廻り、裏門から敬之助と春吉の寝るという離屋を覗いて見ました。     五  平次は越後展の倅三之助を呼込んで、細田屋の主人に引き合せ、お蘭の死骸に一と目逢わせることにしました。  それがどんなに激情的で、平次も八五郎も貰い泣きさせられたかは、ここで申すまでもないことです。この痛々しい光景を、心から泣いてくれたのは、もう一人の男、お蘭と一緒に八年も育って、越後屋三之助のよき相手役、番頭の敬太郎だったことは、並居る人達の涙を絞りました。  お蘭の死骸はこの人達に護られて棺に納められ、一と先ず通夜の仕度をしましたが、さてここまで来ても、お蘭殺しの下手人はわかりそうもありません。 「八、お前気の毒だが、向柳原の伯母さんを連れて来てくれないか。油断をすると、とんだことになりそうだから」 「ヘエ、じゃすぐつれて来ますよ」  八五郎が向柳原に飛出した後、平次は主人の善兵衛と一緒に、家中を隈なく捜し廻りました。主人夫妻、死んだお蘭の手廻りの物から奉公人達の荷物まで、しかしそれはどんな収獲があったか、平次は誰にも漏らしません。  それから八五郎が帰るまでザッと一刻、 「親分、困ったことに、伯母はどこかへ行ってしまいましたよ。お隣で聴くと、今晩は浅草の昔馴染の後家さんのところに泊って、明日昼前には帰るんですって、仕様のない婆アじゃありませんか」 「何を言うのだ罰当り奴、——では俺達も帰るとしようか」 「……」 「下手人は、まだ判らないよ。明日の晩、越後屋の三之助さんも、もういちどここへ来て下さい」 「私は、——細田屋さんのお父さんさえ許して下されば、今夜はこのまま泊めて頂いて、明日の晩までここに居たいと思いますが」 「それもいいだろう」  平次と八五郎はそのまま帰ることにしました。最後のきめ手は、八五郎の伯母さんに逢わなければ、平次にも自信が無さそうです。  だがしかし、事件はその晩のうちに、また急転回しました。 「親分、大変なことになりました。下女のお信が、庭で殺されて居るのを、今朝見つけましたよ」  細田屋の使いが、どんなに平次を驚かしたことでしょう。  それ行け、と谷中へ駈けつけた時は、何もかもおしまい。 「油断をしたよ、八。下手人を縛らないまでも、用心をして置くのだった」  下女のお信は、自分の細紐で首を締められて、これは植込の蔭に投《ほう》り込んでありました、後に残った証拠というものは一つもなく、多勢の人が泊って居たので、誰の仕業とも見当はつきません。  それから一日、細田屋の者は全部家の中に封じ込められ、もういちど家族の持物を念入りに調べました。土蔵の中から細田屋の道楽の芝居の小道具や衣裳が少し出て来たのと、下女のお信が、思いのほかの大金を持って居ることを発見したほかには、なんの変りもありません。  八五郎の伯母がようやく谷中へ送られて来たのは、その晩も少し遅くなってからでした。 「八、皆んな奥の部屋へ集めてくれ。伯母さんはこれから首実験だ」  家中の者を奥の六畳と八畳に集めると、平次は伯母さんをつれて、そこへ入って行きました。 「伯母さん。この中に、伯母さんの見た、あの晩の化物がいるはずだ。気を落ちつけて見て下さい、——あの晩、お嬢さんの部屋にいた若衆ですよ」 「ハイ、ハイ、あの若衆なら見覚えがありますよ」  伯母さんは、縁側に立って、二た部屋に居並んだ、七八人の顔を見ました。灯台《あかりだい》四つと行灯が二つ、老眼にも見のがすはずはありませんが、しばらくすると伯母さんは頭を振って、 「ありませんよ、親分。ここに居る方の中には、この間のお化け若衆らしい人はおりませんよ」 と、しっかりと言い切るのです。 「では伯母さん、これを見て下さい」  灯台を四つと行灯を一つ消して、たった一つ残る行灯に、自分の羽織を着せた平次は、いきなり手をあげて、何やらパッと放りました。それは人間の姿ほどの大きいもので、庭の上を飛んで、忍び返しを越すと、遙かの往来へ音もなく消え去ります。 「あ、あれですよ、親分。あの晩縁側から庭の向うへ飛んだのは」  伯母さんは急に立上りました。主人善兵衛夫婦もなにやらうなずいております。  その間に八五郎が飛んで行って、塀の外から拾って来たのを見ると、それは団扇《うちわ》を二枚合せて、芝居で使う紫色の小袖を着せ、風呂敷で拵《こしら》えた頭をつけた、不思議な人形で、主人夫婦や伯母さんが、これを怪物と見たのは当然のことでした。 「曲者は塀を飛越えたと見せて、実は縁の下に隠れ、あとでノコノコ出て来たのだろう。この上は、芝居気のある者に、皆んな顔を揃えて貰うのだ。越後屋の三之助さんも、番頭の敬太郎も、小僧の春吉も、——八、離屋《はなれ》の敬太郎の荷物の中に白粉も紅もあったはずだ」  平次は伯母さんの眼を信用しなかったらしく、お化け若衆と同じ紅白粉で顔を拵らえさせ、もういちど当夜の記憶を呼び戻そうとしたのです。 「もうたくさん、それには及ばない。同じことなら、処刑台《おしおきだい》には素顔で登る」  立上ってこう言い切ったのは、少ししゃくれた色男、——むしろ醜くさえあった番頭の敬太郎だったのです。     *  事件はその晩のうちに片付きました。番頭の敬太郎は、その場で根津の喜三郎に縛られたことは言うまでもありません。  その帰り、谷中から神田まで、 「敬太郎は、お蘭の芝居好きを知り抜いているし、あの顔は、拵えると、思いのほか美男になるので、お蘭のところに忍び込んだのさ。お蘭はわがままで勝手な娘だ。家柄も男前も良い三之助に惚れ抜いて居るくせに、ちょいとつまみ喰いして罰が当ったのだ。敬太郎は三之助とお蘭の逢引するのを見て口惜しくなり、お蘭をおどかして逢引したうえ、芝居化粧をして浮気なお蘭の機嫌を取り結んだのさ」  平次は例のとおり八五郎のために絵解きをしてくれます。 「そのお蘭を殺したのは」 「越後屋の三之助の婿入りの日が近くなって、お蘭がワクワクしながらそれを待っているのを見て、敬太郎は口惜しかったのだ。それにお蘭が死ねば、自分が細田屋の養子になれるかも知れない。幸い小僧の春吉は大寝坊で、床に入ればなんにも知らない」 「下女のお信を殺したのは」 「余計なことを知って居たからだ。あの前の日もお信は三之助と何やら話して居たが、敬太郎は、自分とお蘭のことを言われると身の破滅だと思ったに違いない」  平次はつくづくそう言うのでした。 「それにしても、あの娘は綺麗すぎた代り浮気過ぎましたね」 「八の女房には、あんなのはいけないよ」  その頃、明神下の平次の家では、女房のお静が、お燗を気にしいしい待って居るのです。  猫の首環     一 「人の心というものは恐ろしいものですね、親分」  八五郎が顎《あご》を撫でながら、いきなりそんな事を言うのです。 「あれ、たいそう物を考えるんだね。菓子屋の前を通ると、店先の大福餅をつかみ喰いしたくなったり、酒屋の前を通る度に、鼻をヒクヒクさせるのも、人間の心の恐ろしさだというわけだろう」 「止して下さいよ、親分、あっしのことじゃありませんよ」  平次の鼻の先で、八五郎は無性にでっかい手を振りました。 「そうだろうとも、お前の心なんてものは、ビードロ細工で見透しだよ、腹が減るとお勝手ばかり覗《のぞ》くし、お小遣が無くなると、俺の懐ろを気にするし」 「もうたくさん、——あっしの言うのは、浅草阿倍川町の仏米屋《ほとけこめや》と言われた俵屋孫右衛門が、ゆうべ隠居所で殺されていたと聴いたら、親分だって変な心持になるだろうということですよ」  八五郎はようやく本筋に入りました。 「ヘエ、あの評判の良い人がねえ、俺は逢ったこともないが、昔は浅草で鳴らした人だというじゃないか」 「少し一徹者《いってつもの》ではあったが、義理堅くて親切で、評判の良い人でしたよ。それを虫のように殺すなんか、ひどいじゃありませんか、八方から人気のあった孫右衛門を、殺すほど怨《うら》んでいた者があると思うと、あっしは世の中がいやになりましたよ」 「八五郎に出家遁世されると、俺も困るし、差し当りあの娘《こ》が泣くだろう。人助けのため阿倍川町へ出かけて見るとしようか」 「そうして下さいよ、親分が乗出して、下手人を縛って下さると、あの娘が喜びますよ」 「誰だえ、お前の言うあの娘は?」 「俵屋孫右衛門の娘、お柳《りゅう》と言って十六、花の蕾《つぼみ》のような可愛らしい娘ですよ」 「俺の言うあの娘は、煮売屋のお勘子《かんこ》さ」 「冗談いっちゃいけません」 「お前には少しお職過ぎるかな」  無駄を言いながら、手早く仕度をして、二人は五月の陽の照りつける街へ出ました。  道々八五郎は、俵屋のことを、いろいろ説明してくれます。先代の主人孫右衛門は、仏米屋と言われた、評判の良い人でしたが、十年前に配偶《つれあい》に先立たれ、四五年前から中風で足腰の自由を失い、二年前からは寝たっきりで、家督《かとく》は養子の矢之助に譲り、何不自由なく養生して居るということです。  当主の矢之助は、孫右衛門に子が無かったための夫婦養子で、嫁のお舟は遠縁の者、矢之助は四十二の厄《やく》、内儀《おかみ》のお舟は三十八の働き盛り、多数の雇人を、顎の先で使いこなすと言った、口八丁の才女です。  孫右衛門の本当の娘のお柳は、矢之助お舟の夫婦養子が入ってから出来た子で、今さらどうにもならない存在でした。それだけに孫右衛門の寵愛が深く、わけても母親の死んだ後は、簪《かんざし》の花のように大事に育てました。  家族はその四人だけ、あとは、番頭の与七が四十八の白鼠《しろねずみ》〔忠実な雇い人〕、手代の幾松は十九の子飼い、親は有名な幇間《たいこ》の幸三郎ですが、倅《せがれ》まで道楽商売は見習わせたくないというので、かつての旦那筋、先代孫右衛門に頼んで堅気の商人に仕立てる積りの年季奉公です。  あとは下男の太吉と、下女のお梅だけ。米搗《こめつき》の男達は、大概冬場だけ国許から稼ぎに出て来る越後者《えちごもの》が多く、御厩河岸《おうまやがし》の仕事場に寝起して、夏場は留守番二人だけになってしまいます。  八五部の説明が終るころ、二人はようやく阿倍川町に着きました。     二  二人を迎えてくれたのは、内儀《おかみ》のお舟でした。三十八という大年増ですが、眉の跡の青々とした、眼の大きい、かなりのきりょうで、口の大きいのが気になりますが、その代り弁舌爽やかで、男まさりのやり手らしく見えます。 「ま、八五郎親分、御苦労さまで——銭形の親分さんも御一緒ですか、それはまア、とんだお世話様で」  なかなか人をそらしません。 「おや、銭形の親分さん、御手数をかけます」  後ろから顔を出したのは、番頭の与七でした。四十七・八の世馴れた男で、自分の都合さえよければ、どっちへでも付いて行きそうな人間です。  奥へ通ると、さすがに大家で、親類縁者や、近所の衆が立て混んでいることと思うと大違いで当代になって人付き合いが悪く、遠い親類や町内の人達も、あまり寄りつかなくなったと、後で人の噂に聴きました。  隠居の孫右衛門の病間《びょうま》というのは、北側の渡り廊下を隔てた離屋《はなれ》で、六畳と四畳半の二た間、その奥の六畳に、昨夜の血を清めたままの死骸を、新しい布団の上に横たえてあります。畳建具から調度は、思いのほかに簡単なもので、部屋の中がムッと汗臭いのも、俵屋の大|身上《しんしょう》の隠居部屋に似合わぬことです。  死骸の世話をして居たらしい、養子の当主矢之助は、平次と八五郎の顔を見ると、少し遠退いて挨拶しました。四十二というにしては、子供っぽいところのある丸顔で、いちおう愛嬌者に見えますが、こんなのは案外|強《したた》かな魂の所有者であることは、いろいろの場合に平次は経験しております。  床の裾《すそ》の方に、小さくなっているのは、殺された孫右衛門の独り娘、お柳と——八五郎の説明でわかりました。八五郎が説明してくれなければ、全くわからなかったかも知れません。十六娘の初々しさも、恐ろしい悲嘆と絶望に打ちひしがれて、まことに見る影もない姿ですが、挨拶する時ふと挙げた顔は、涙に濡れて脹っぽくさえなって居るのに、なんとも言えない可愛らしさでした。  それは世に言う美人ではなく、日蔭に咲いた虫喰い牡丹の蕾のような、一種の可憐さと、弱々しさと、そして若さとの異様な混合で、人の心に喰い入る、いじらしさを持って居る顔というべきでしょう。  身扮《みなり》は思いのほか良く、小綺麗な単衣《ひとえ》などを着ておりますが、それがさっぱりした木綿物でもあることか、畳み皺の目立つ絹物で、下着の破れや、帯の汚れが目立つのも妙な浅ましさです。  死骸はいちおう清めてありますが、髭も月代《さかやき》も伸び放題、身体も汚れて、小ざっぱりした寝巻とはなはだ調和が取れません。六十というにしては、ひどい衰弱で、骨と皮ばかり、昔は立派であったことと思う人品も、賤しさと棘々《とげとげ》しさに、人の眼に不気味に焼きつきます。  傷は右の喉笛へ一カ所だけ、薄刃の鋭い刃物で、一気に頸動脈を掻き切られたものでしょう、恐らく声くらいは立てたにしても人を呼ぶ力もなくこと切れたのかも知れません。 「昨夜の様子は?」  平次は言葉少なに、主人矢之助に訊ねました。 「昨夜、戌刻半《いつつはん》(九時)少し前だったと思います、店を閉めて、奉公人達は、それぞれ自分の部屋に引取り、家内はお勝手に居たようで、私は二階の部屋で涼んでおりました。御存じのとおり暑い晩で、あっちもこっちも開け放したままで」 「……」  矢之助は息を継ぎました。平次は黙って先を促がしました。 「下女のお梅が、隠居所の雨戸を閉めるつもりで、渡り廊下まで来ると、部屋の中から飛出した猫が、暗い中を気狂いのようになって庭へ飛び降り、垣根の方へ逃げて行ったそうです。なんか唯事《ただごと》でないような気がして、奥の六畳へ入ると、中は血の海で、親父はまだ息があったそうです」 「なんか言わなかったのかな」 「さア、そこまではわかりません、——お梅は隠居所から飛出して騒ぎ立てたので、家中の者は皆んな集まって来ました、私も二階から降りるとき、あんまり急いで踏み外したりしましたが、なに怪我は大したことじゃありません」 「それから」 「医者を呼んで手当てをしましたが、もう手遅れで」 「部屋は閉めてあったことだろうな」 「窓も雨戸もすかしてありました。入ろうと思えば、どこからでも入れたわけで」 「刃物は?」 「鞘は縁側に落ちておりましたが、中味はずっと離れた生垣のところに放り出してありました。今朝になって、幾松が見付けたそうで」 「見覚えのある刃物か」 「父親の持ち物で、隣の部屋の用箪笥に入っていたはずです、細身の匕首《あいくち》で——これですが」  矢之助が振り返ると、若い手代の幾松は、手拭に包んだ匕首を、隣の部屋から持って来て、そっと平次の前へ滑らせます。  この幾松というのは、幇間《たいこ》幸三郎の子でいかにも素朴な真面目な男、十九の年にしては筋骨も逞《たく》ましく、糠《ぬか》の匂いの紛々とした、米屋の若い衆らしい好青年でした。  匕首は細くて長く、ひどく華奢《きゃしゃ》なものでしたが、それだけ不気味に鋭さを持っております。 「御隠居は、自分でこれは取出せなかったのか」 「長いあいだの患いで、足腰は全く立たず、手と口だけ丈夫なのがかえって口惜《くや》しいと言っておりました。隣の部屋の箪笥のものを、自分では出せるはずもありません」  主人矢之助は確《しか》とこう言うのです。     三  平次は、八五郎に近所の様子を見せながら、自分は、部屋の配置、家の造りを見て、曲者の侵入経路を調べました。  離屋《はなれ》は全く独立したもので、庭からは——雨戸さえ開いておれば——どこからでも入れますが、手と口だけは達者であったという隠居の寝間へ、まだ灯《あかり》のある宵のうちに押し込んで、声も立てさせずに、正面から匕首で刺すということは、ちょっと考えられないことであり、曲者はやはり、家の中の者ではないかと、平次が考えたのも無理のないことです。  他人からは評判の良い者が、案外家の中に、寝刃《ねなば》を合せる敵を持って居ることがあり、孫右衛門の命を取ったのも、そんな関係で、思いも寄らぬ身近の者かも知れないのです。  母屋はかなり堂々たる二階建で、店口と裏と二カ所に梯子段があり、裏の梯子段は離屋のすぐ前から、主人矢之助の部屋に通じ、店の梯子段は、店の上から三間つづきの、奉公人達の部屋に通じております。  この店の梯子段から離屋へ来るためには、二階の主人の部屋の前を通るか、階下《した》のお勝手にいる内儀の眼か、お勝手の側の三畳に居たはずの、下女のお梅の眼に触れなければならず、宵のうちに離屋に侵入して、主人の喉笛を刺すことは、奉公人達——番頭の与七と手代の幾松と下男の太吉には先ず不可能なことと見なければなりません。  すると、犯人を家の中の者と限定すれば、主人にして養子に当る矢之助と、その女房のお舟、下女のお梅の三人のうちの一人ということになります。  ひとわたり家の中を見た平次は、庭下駄を突っかけて、狭い庭伝いに、お勝手の方へ廻って見ました。近ごろは雨が多い上に、庭と言っても建物と板塀の間の少しばかりの空地で、陽に疎《うと》いためか、歩けば一々刻印を捺《お》したように足跡がつくので、とんだ神変不可思議な曲者でも、外から忍び込んで、隠居の寝ている離屋へ、足跡を残さずに近寄る工夫はありません。 「おや、そこで、何をして居るんだ」 「あれ、私かね」  平次に声をかけられて、フト顔を挙げたのは、下女のお梅でした。年は二十八、三浦から来た出戻りの女で、よく働く正直者だとは後で聴いたことです。 「猫の行水は珍しいな」 「でも、血だらけだよ。可哀想に、御隠居様が殺されて居るのを見て、びっくりしたこんでしょう。首環も何も振り落して、昨夜からどけえ行ったか、姿も見せなかっただよ」  白い、大きい猫でした。お梅は盥《たらい》でしめした雑巾で、せっせと、その雪のような毛並を汚した血を拭《ふ》いてやってるのです。 「その猫は、お前によく馴れている様子だね」 「よく馴れていますだ。恐ろしく人見知りをする猫で、滅多に人の傍へは寄らねえが、御隠居様とお嬢様と、私にはよく馴れて、打っても叩いても、甘えて喉を鳴らして手に了《お》えねえだ」 「どれ、ちょっと見せてくれ」  平次は盥の傍に寄って手を出すと、猫はたちまち背を丸くして、お梅の手を潜《くぐ》り抜けたとみるや、疾風のごとく逃げ去ってしまったのです。 「それね、お前様も、猫には好かれねえだ」 「まア、いい、猫には嫌われても、お前に嫌われなきゃ——ところで、お前が昨夜、御隠居の殺されているのを見付けた時のことを、もう少し詳しく話してくれないか」 「詳しくなんか、話しようはねえだよ。もっとも、御隠居さんが、私の顔を見ると——」 「待ってくれ、御隠居は、床の上に仰向けに寝て居たのか」 「いえ、起き直って、布団にもたれて居ましただよ。その辺一パイの血で、私が思わず大きな声を出すと、瀬戸物で拵《こせ》えたような眼で、ジッと宙をにらみながら、——矢之助、矢之助——と二度ばかり旦那様の名前を言ったようだが」 「それは本当か」 「間違えはねえだ。旦那様には言わなかったけれど」 「いったい、この家の中には、ごたごたはなかったのか。もめ事とか、喧嘩とか」 「そんな事、私は知りましねえ」 「御隠居と主人の仲は?」 「あんまり良いとは言えねえけれど」  お梅は急に口を噤《つぐ》んでしまいました。自分の言い過ぎに気が付いたのでしょう。     四  店へ廻ると、番頭の与七と、手代の幾松と、下男の太吉が、二三の近所の衆と、何やらひそひそと語り合っておりました。 「けさ匕首を拾ったのは、どの辺だ、教えてくれ」  平次は幾松を呼出して訊くと、 「こっちですが」  幾松は先に立って案内しました。生れはどうあろうとも、なんとなく小気味の良い青年です。  幾松が平次を案内して、指さしてくれたのは、お勝手に近い生垣の袖のところで、そこは陽当りが良いせいか、土がよく乾いて、足跡らしいものもありません。  ここから隠居所までは、母屋の角を一つ廻らなければならず、曲者はうっかりここまで刃物を持って来て、気が付いて捨てたか、または取落したものかわかりません。 「ところで、この家はモメ事があるようだが、お前はどう思う?」  平次は匕首に事寄せて、ここまで幾松を誘い出したのは、そんな事が訊きたいためでした。 「私はなんにもわかりません。でも、お嬢さんが可哀想で」 「それはどういうわけだ」 「物見遊山や稽古事などは、及びもつかないことですが、俵屋の一と粒種ですから、あんなに厳しく躾《しつ》けなくたっていいと思いますよ」 「?」 「お内儀さんが、朝から晩まで躾け躾けと言って、箸のあげおろしまでやかましく言った上、まるで下女同様に働かされておりますよ」  幾松は若さの義憤に燃えて、ツイ主人夫妻の非難になるのでした。 「昨夜お前はどこに居た」 「店二階でした。番頭さんと、太吉どんと一緒で」 「よしよしそれ位のことで」  平次は幾松を店へ帰して、庭から縁側の方へ行くと、障子の蔭から、こっちを覗いている白い顔が、ハッとしたように引込んでしまいました。娘のお柳だったことは、あとに残ったおもかげの優しさでもよくわかります。  番頭の与七は利口と愚鈍と、自由自在に使いわける性《たち》の人間で、平次につかまっての話も、ヌラリクラリと一向に埒《らち》があきません。 「御隠居を怨む者? とんでもない、そんな人間はあるはずもございません。御主人夫婦と御隠居様の仲ですか、——それはもう、はたの見る眼も羨ましいような親子の間柄で、ハイ」  などと、よくもこう空々しい事が言えるかと思うほどです。  下男の太吉は二十二三、逞しく正直そうな男ですが、上総から来たばかりでなんにも知らず、平次の調べも、この辺で先ず一段ということになりました。  と、ちょうど、近所を一と廻りした八五郎が、持前の気軽さと、巧みな口取りで、思いのほか材料を集めて来てくれたのです。 「驚きましたよ。親分、俵屋というものは、遠くで見たのと違って、近くの評判はさんざんですね」 「何がさんざんなんだ」 「評判のよかったのは殺された先代の孫右衛門で、今の主人矢之助ときたら、夫婦養子の癖に先代が少し中気の気味だからと言って押入隠居をさせ、足腰が立たなくなってからは、あの隠居部屋へとじ籠めて、三度の食い物もあてがい扶持《ぶち》、飯が一杯に味噌汁少々、漬物が二た片、盆も正月も、それで押っ通したというから、大した虐《いじ》めようじゃありませんか」 「俵屋の先代を、誰がいったい?」  平次は身内に義憤の湧き上がる心持でした。 「養子の当主矢之助ですよ。もっとも親不孝は夫婦の相談ずくで、一方だけということはありません。ことにあの内儀のお舟と来たら、鬼のような女で、面《めん》はちょっと踏めますが、亭主を引摺り廻して、身動きも出来ない親から、奉公人達にまで辛く当るそうですよ」 「……」 「外面如菩薩《げめんにょぼさつ》、内心如夜叉《ないしんにょやしゃ》というのですね。女の薄情なのは、恐ろしいものですね。ときどきは自分で隠居所へ膳を運ぶこともあるが、月に一度腐った干物でもつけると、離屋の隠居所へ入る前に、あの渡り廊下で、野良犬を呼んで投げてやり、隠居へは空っぽの皿だけ見せるそうですよ、——年寄りには油っ濃いものは毒だというんだそうで、躾け躾けで、先代の一人娘お柳さんをいじめ抜くのと、同じ術《て》ですね。あの様子では、お柳さんも何時どんなことで、食い合せか中毒でコロリと死ぬかも知れないと近所中の噂ですよ」 「……」 「隠居は毎日泣いていたそうですが、誰にも逢わせないから、愚痴のこぼしようも無かったでしょう。その間に娘のお柳さんが、下女と同じにこき使われ、下女並の食物をあてがわれながら、自分のお菜《かず》をそっと隠して、窓から父親の孫右衛門に貢《みつ》いでやるのを、近所の衆が見て、涙をこぼしたそうです。それも、一度内儀に見付かって、ひどい仕置を受けたというのは、腹が立つじゃありませんか、親分」 「よしわかった。お前が泣くのももっともだが、次を話せ」 「あの娘のお柳は、誰がなんと言っても、俵屋の一と粒種だから、婿でももらって、この身上《しんしょう》を引渡すのが本当でしょう。それを当主の矢之助とお舟の夫婦が、他人の癖に大きな面をして、隠居と娘を邪魔物にするのは、ブチ殺してもやりたいようだと、これも近所の衆の噂ですよ」 「変なことになるぜ、八。それでは矢之助とお舟が殺されるわけになるが、隠居が殺されるのは筋が立たないじゃないか」 「隠居を邪魔にしたんじゃありませんか」 「邪魔かは知らないが、そんな危い橋を渡って、足腰の立たない年寄りを殺すのは、無算当《むさんとう》に過ぎるようだが——」  平次はなかなか八五郎の説に賛成してくれません。 「ところで、もう一つ、面白い話がありますよ」 「面白い話?」 「あの若い手代の幾松は、野幇間《のだいこ》の幸三郎の倅だと言いましたね」 「うん、聴いたよ」 「幸三郎は幇間持ちのくせに妙な男で、たまたま、良い倅が生れたのは、神様の授かり物だから、これに道楽稼業を見習わせちゃ悪いと、昔世話になった俵屋の孫右衛門旦那に頼み、小さいうちから丁稚奉公に出したんだと言いましたね」 「うん」 「その幾松は感心な男で、働き者で正直だが、この道ばかりは別と見えて、いつの間にやら、娘のお柳と懇《ねんご》ろになった」 「本当かえ、それは。十八と十六だぜ」 「十八と十六でも、男と女に違いはありません。——あっしだって身に覚えはありますが」 「よせやい、馬鹿馬鹿しい」 「ともかくも、お安くないんだって、これも近所の衆の噂で、ヘッ」  八五郎は、独り悦に入っております。十八と十六の恋仲が嬉しくてたまらなかったのでしょう。     五  平次はそれっきり阿倍川町を引揚げてしまいました。下手人が鼻の先ヘブラ下って居るような気がして、八五郎はひどく口惜しがりますが、平次が手を下さないのでは、どうすることも出来ません。  俵屋を出るとき、下女のお梅と、下男の太吉に、何やらささやきました。『猫の首環をどこへ落して来たか、見付かったらそっとしまって置いてくれ』と言ったようですが、八五郎には、その意味が少しもわかりません。  翌《あく》る日、八五郎は相変らず髷《まげ》ッ節《ぷし》を先に立てて飛んで来ました。 「サァ大変、三輸の万七親分が乗出して、俵屋の主人矢之助を縛って行きましたぜ」 「そうか、やりそうな事だな」  平次はあえて驚く色もありません。 「なんでも、三輪の親分のところへ『俵屋孫右衛門殺しの下手人は、養子の矢之助に違いない』という手紙を投げ込んだ者があったそうで」 「つまらねえ事をする奴があるんだな、放って置けよ」 「いいんですか、親分、あんなに骨を折って、手柄を三輸の万七親分にさらわれちゃ」 「いいってことよ、二三日経てば、矢之助は戻って来るよ」  平次の予言は見事に的中しました。矢之助は三日目に帰され、俵屋は何事も無かったように、忌中《きちゅう》の札を剥《は》がして商売を始めたのです。  それから五六日経ったある日のこと、 「御免下さい、親分さんに、ちょいと御目にかかって申上げたいことがありますが、ヘエ、私は俵屋の手代幾松の父親、幸三郎でございますが」  と、大きな坊主頭が、平次の前へ恐る恐る現われたのでした。  ちょうど晩の膳を引いて、八五郎と差向いのまま、未練らしく徳利に残った燗ざましを絞っているところでした。 「あ、師匠か、俺は遊びに縁が遠くて、滅多に逢う折もないが、師匠の名前だけはよく知っているよ」  平次に声をかけられて、 「へ、へ、恐れ入ります」  などと、幸三郎は神妙らしく、額で畳を掃くのです。 「ところで、なんだえ、用事というのは?」 「私は、俵屋の大旦那、亡くなった孫右衛門様に、海山の御恩を受けております。一々は申上げられませんが、その一つ二つを拾って申しますと、私の亡くなった女房は、吉原の中どころの店の新造で、誰《た》が袖《そで》と申しました。若い盛りで、私と飛んで落っこちになり、死ぬの生きるのと言う騒ぎをいたしましたが、俵屋の大旦那様が可哀想だと仰しゃって、誰が袖を請出《うけだ》して、私と添わせて下さいました。その仲に生れたのがあの幾松で」 「……」  平次は黙って聴いております。 「女房は七年前に亡くなり、男手一つで育て兼ねて、倅の幾松は俵屋に丁稚奉公に出しました。それから一年過ぎ、私は悪い客に騙《だま》されて、危うく謀判《ぼうはん》の一味に引摺り込まれるところを、大金を出して救って下すったのも孫右衛門旦那で、お蔭で私は首が繋《つな》がりました。そんな大恩のある旦那様が、人手にかかって亡くなられたのを、黙って見て居ては、私は畜生よりも劣った人間になります」 「で?」 「俵屋の御隠居——昔の大旦那様を殺した下手人は、私の眼で見てもわかっております。銭形の親分さんに、それがわからないはずはございません。——こんな事を申上げたら、さぞ御腹も立つことでしょうが、どうしてあの下手人を縛って下さらないか、私にはどうしてもわけがわかりません」 「証拠が無いのだよ、師匠」  勢い込んで畳みかける幸三郎の鋭鋒《えいほう》を、平次は軽くいなしました。 「証拠はたくさんございます。匕首のしまってある場所を知ってるのは、若御主人とお内儀の二人だけ。あのとき二階から、人に知られずに、そっと降りて離屋へはいれるのは若御主人だけ、匕首は二階から投げると、ちょうど生垣のあの辺へ落ちます。下女のお梅が飛込んだとき、御隠居様はまだ息があって——矢之助、矢之助——と若御主人の名を仰しゃったと言います。御隠居様は眼も口も、お手も大した不自由はなかったのに、足だけは不自由でずいぶん養子御夫婦に迷惑がられ、邪魔がられておりました。御隠居様さえ亡くなれば、あとはお嬢様一人、俵屋は若主人御夫婦の自由になります。——それでも証拠はないと仰しゃるんでしょうか、親分さん」  幸三郎は畳を叩かぬばかり、平次に詰め寄るのはなんとしたことでしょう。 「よしよし、もういちど考えてみよう、ところで、師匠の倅の幾松はどうして居るんだ」 「へ?」 「お嬢さんのお柳を庇《かば》い過ぎて、俵屋から追い出されたのじゃないか」 「どうして、親分さんは、それを」 「お前の眼の色に、ちゃんと出ているよ」 「恐れ入りました。幾松は大した縮尻《しくじり》もないのに、難癖をつけられて、六年越し奉公をした、俵屋を追い出されました。——昨日のことでございます。可哀想に、お嬢様は、この先どんなことになりますことか、見張ってやる者もございません」 「お前の言うのも、よくわかるが、それだけのことで、人を縛るわけにはいかないのだよ」 「証拠と言って、何が不足なんでしょう、親分さん。私は御覧のとおり意気地のない芸人ですが、これをしろと仰しゃれば、口幅ったいようですが、火水の中へでも飛込んで、孫右衛門様の敵が討ちとうございます」 「不足なものは、猫の首環だよ。赤い小布《こぎれ》をくけて、小さい鈴をさげた首環」 「そんなものを、御冗談でしょう親分」  幸三郎は一概に笑いのめしますが、平次の顔は、真面目に引締って、ほぐれそうもありません。     六  その足で幇間の幸三郎は、愛嬌稼業柄らしくもなく、坊主頭を振り立てて、俵屋に怒鳴り込み、主人矢之助と下男の太吉につまみ出され、下駄で打ち据えられて、額に怪我をしたという話は、明神下の平次にも聴こえましたが、大店《おおだな》に野幇間《のだいこ》風情が怒鳴り込むというのが、どだい間違った話で、これはどこへ訴え出たところで、取りあげてくれる道理もありません。  事件はそれっ切り、二日、三日と経って、五月もようやく晦日《みそか》近くなりました。  ある日八五郎が、今度こそは、両手を宙に打ち振りながら、疾風のごとく飛んで来たのです。 「何があったんだ、八、喧嘩か、火事か、借金取りか」 「やられましたよ、親分」  八五郎は息せき切って、しばらくは後が続きません。 「何がやられたんだ」 「俵屋の内儀——あの内心如夜叉が、二階へ上ったところを匕首で一とえぐり」 「死んだか」 「業《ごう》が深いから死にゃしません、ほんのかすり傷で、首筋を引っ掻いただけですが、騒ぎが大きいから、阿倍川町じゅう夜討をかけられたほどの騒動ですよ」 「曲者は?」 「首尾よく逃げたそうで」 「首尾よく逃げた——という奴があるものか」 「晦日に近くて月が無いというのは、なんという有難い天道様《てんとうさま》の覚し召しか、曲者は二階から飛降りて、路地の闇に姿を隠してしまったそうで」 「刃物はなかったのか」 「そんな間抜けたものは残しゃしませんよ。あれは鎌鼬《かまいたち》ですね」 「あんな事を言やがる」  平次も放っても置けず、阿倍川町まで出かけましたが、お内儀の傷があまりにも軽かったのと、曲者の残したものは一つもなく、家中の者も、二人三人ずつ固まって居たので疑いようは少しもありません。 「父親がやられたのと、同じ手口ですね」  矢之助は|うさん《ヽヽヽ》らしく首を捻《ひね》りますが、そうかと言って、誰を疑いようもなかったのです。  平次はその帰り、門前町の幇間幸三郎の長屋を覗きました。幸三郎は仕事のことで留守、倅の幾松は、俵屋から追い出されたものの、行き場もなく燻《くす》ぶっております。 「昨夜、お前はどこに居たんだ」 「ここに居りましたよ。親父と二人、一杯呑んで、宵のうちは愚痴話になり、亥刻《よつ》(十時)前に寝ましたが、犬が吠えてしばらく寝付けなくて弱りましたよ。なんか変ったことでもあったんで?」  幾松のけげんな顔には、なんの駆引があろうとも思えなかったのです。  そこを出て、明神下の方へ、物を考えながら行くと、二三丁のところで、幇間の幸三郎にハタと逢いました。 「おや、銭形の親分、いいところでお目にかかりました。ちょうど明神下の親分さんのお家まで行こうと思って居たところで」  幸三郎はひどく上機嫌です。 「なんだえ、師匠、急に用事でもあるのか」 「なアに、用事って程じゃありませんが、一人で溜飲を下げちゃもったいないと思いましてね」 「?」 「俵屋の内儀が、曲者に刺されて、引っ掻くほどの傷を拵えたんですってね、惜しいことに、曲者の手許が狂ったんですね」 「何を言うんだ師匠、俵屋の内儀が、殺されなかったのが惜しいというのか」 「と、とんでもない、とんだ災難だったという話で、へ、ヘッ、ヘッ」 「ところで、師匠は昨夜どこにいたんだ」 「私じゃございませんよ、俵屋の内儀を引っ掻いたのは」 「そうだろうとも、念のために聴いて置くのだよ」 「倅と二人、一杯呑んで、宵のうちは愚痴話になり、亥刻《よつ》前に寝てしまいましたが、犬が吠えてしばらく寝付けなくて弱りましたよ。それっ切りで、ヘエ」  幸三郎の言いわけは、倅の幾松と符節《ふせつ》を合せております。     七  それからまた五日、俵屋の事件は、平次が最後の断を下す前に、重大な破局へ落込んでしまったのです。  こんどは、八五郎の注進が飛んで来る前に、浅草阿倍川町の現場から、土地の下っ引が飛んで来たのは、まだ夜明け前の暗い時分でした。 「親分、阿倍川町の俵屋の主人矢之助が殺されましたよ」 「それは」  平次も事件の急発展に、ひどく驚いた様子です。 「すぐ来て下さい、御検死は明るくなってからでしょうが、ともかく、親分へ」 「よし、すぐ行く、が、向柳原の八五郎にも知らせてくれ、——後から来るようにと」  平次は薄暗い道を拾って駈け出したことは言うまでもありません。  隠居孫右衛門の殺された時と違って、未明の俵屋は、大変な騒ぎです。 「親分さん、私はもう」  平次の顔を見て、飛んで出たのは、内儀のお舟でした。 「どうしたことです、お内儀さん」 「何が何やら少しもわかりません、昨夜店で帳合をして遅くまで仕事をしていた主人が、亥刻《よつ》半頃(十一時)店を引揚げて、二階へ来る積りだったんでしょう、梯子段の下まで来て、いきなり刺された様子で」 「……」  内儀はゴクリと固唾《かたず》を呑んでつづけるのです。 「騒ぎを聴いて駆けつけた時は、もう虫の息でした。曲者はもう姿もありません、家中の大騒動になって、お医者も呼びましたが間に合わず、——」  内儀はただ、しどろもどろに続けます。 「とにかく、仏様に」  平次は番頭の与七を促して、死骸を納めてある部屋に行って見ました。  主人の死骸は、その殺された梯子段の下の、八畳に納めてありますが、傷は隠居の時と違って、後ろから一と突き、肩胛骨《かいがらぼね》の下をやられたもので、心の臓を破ったらしく、おそらく声も立てずに死んだことでしょう。 「刃物は?」 「それもありません。曲者はさいしょから忍び込んでいた様子で、私どもが駈けつけた時は、どこへ潜ったか、影も形もありませんでした。暑い晩で、雨戸は一枚開けたままで、どこからでも逃げられたことでしょう。今朝になってから庭も見ましたが、よく乾いていて、足跡も見付かりません」  番頭の説明をまつまでもなく、この事件のむつかしさは、平次にもよくわかります。  その時駈けつけた八五郎に、そっとささやいて門前町の幸三郎の家を覗かせると、間もなく戻って来て、 「幾松一人ぼんやりして居ますよ。親父の幸三郎は、関所の手形まで用意して三日前にお伊勢様へ出かけたようで、『今頃は小田原かな』などと呑気なことを言っていました」 「仕方があるまい。——ところで、下女のお梅と、下男の太吉を呼んでくれ」  明るくなった庭、縁側に腰をかけると、どこかで時鳥《ほととぎす》の蹄くのが聞えて、今日も暑くなりそうな鱗雲《うろこぐも》が、朝の空に黄金色に漂うのです。 「ヘエ、お梅と太吉が来ましたが」  八五郎に呼出されて、下女のお梅と下男の太吉はけげんな顔を庭先に揃えました。 「お前達に頼んで置いたはずだが、猫の首環は見付かったか」  平次の問いは、この場合いかにものんびりして居ります。 「昨日《きのう》の夕方、裏の生垣の外のドブを掃除して居て、ようやく見付けましたよ」  それは下男の太吉でした。 「どれどれ」 「あんまりひどく汚れて居るから、ちょいと洗って置きましたが、まだよく乾かないかも知れません」  そう言って太吉が手拭に包んで居たのをほどいて、平次の前へ、生湿りの赤い首環を出しました。  縮緬らしい小布《こぎれ》でくけた猫の首環、小さい鈴まで付いたままですが、どうしたことか、首の上に当る部分が、刃物で切ったように、見事に——しかも真っすぐに切れて居るのです。 「わかったよ、八」  平次の声は思わず大きくなりました。 「何がわかったんです、親分」 「御隠居の孫右衛門は、人に殺されたのでなく、自分で喉を突いて死んだんだ」 「そんな馬鹿なことが親分」  八五郎は、あまりの事に、親分を馬鹿扱いにしてしまいました。 「皆んなをここに集めてくれ、俺は言って聴かせることがある」 「待って下さい、親分」  八五郎は飛んで行くと、内儀のお舟、娘のお柳、番頭の与七をはじめ、家中の者を、縁側の前、ちょうど、最初の夏の朝日を浴びるあたりに立たせました。後ろには部屋の障子を開けたまま、主人矢之助の死骸があり、平次は縁側に腰をかけて、ちょうどその間に挾まった形になっております。     八 「御隠居の孫右衛門は死ぬ気になった、——どうしてそんな気になったか、皆んなは覚えがあるな。ともかくも自分の命を自分で断つ気になったが、同じ死ぬなら、怨みのある者に思い知らせて、あわよくば、その者を下手人に仕立ててやりたいと思った」 「……」  平次の話の物々しさに、庭に立った人達は思わずシーンとなってしまいます。 「動かぬ身体を動かし、大骨折で次の間に這って行き、箪笥から匕首を取出したことだろう。それを布団の下に隠して折を待ったが、良い折がすぐやって来た——ふだん可愛がっていた白猫だ」 「……」 「御隠居は、その白猫がよく馴れているので、膝の上か懐ろの中であやしながら、匕首で自分の喉笛を掻き切り、おそろしい苦痛を堪えて、血だらけの匕首を猫の首に巻いてある環に挾んだに違いあるまい」 「……」 「猫は血だらけになって、驚いて逃げた、それを渡り廊下で見たのは下女のお梅だが、もう暗くなって居たので、その猫が匕首を背負って居るとは気がっかなかったことだろう。御隠居はまもなく死んだが、猫は匕首を背負って生垣のところまで逃出し、邪魔になるから、無性に首を振ったことだろう。首環に当るところは、ちょうど匕首の元の方の刃だ、あの匕首はよく切れるから、首環を切って下へ落ちた。首環はその弾みで、生垣の隙間から、向うのドブに落ち、血に濡れたうえ鈴が付いているから、泥水の中に潜ったことだろう」 「……」 「鞘《さや》は自害をする前に縁側に放《ほう》った、これで、仕事は見事に出来上り、主人矢之助は下手人の疑いを一応受けたわけだが、いろいろの事から、俺は矢之助を下手人でないと思った。四方の様子は親を殺せば直ぐわかるようになって居たし、放って置いても御隠居の命は長くはない。灯りのある部屋で、仲の悪い養い親を、正面から物を言わさずに突き殺せるわけも無い、——が、猫の首環が見付からないので、俺はなんとも言えなかった」 「では、私を突いたり、私の主人を殺したのは誰でしょう、親分」  内儀お舟の声がはげしく抗議するのです。 「それもわかって居るつもりだ、八、あの男を追っかけろ」  平次が指したのは、皆んなの後ろに立って、黙って聴いて居た、幾松の姿でした。この時幾松は庭を出て、阿倍川町の往来の方へ、小走りに走って行くのです。     *  幾松は引戻されましたが、それは主人矢之助を殺し、内儀お舟を刺した曲者でないことは直ぐわかり、平次のこの処置はいちおう八五郎までも変に思わせましたが、翌る日、幇間《たいこ》の幸三郎の水死体が、両国の下に浮いて、何もかも分明しました。  幸三郎幾松親子の口が合い過ぎるのが、平次の疑いの因で、俵屋のお舟を刺したのは、幾松でなければ幸三郎の仕業と見当をつけ、つづいてお伊勢|詣《まいり》に行ったはずの幸三郎が、江戸の町に身を潜めて、矢之助を殺したことも、平次は簡単に見抜いてしまったのです。  平次は幸三郎をおびき出すために、倅の幾松を囮《おとり》にしました。卑怯なやり方で、日頃の平次の好まないことですが、今となっては、幸三郎をおびき出す術《て》は、外にありそうもないのでした。  幸三郎はリゴレットのように子煩悩でした。自分の一生を犠牲にして、こうも立派に育てた倅の幾松を助けるために、遺書を残して大川へ飛込んでしまったのです。  それから、俵屋の親類達が集まって、この騒ぎを起した内儀のお舟を遠ざけ、改めて幾松とお柳を一緒にすることになり、俵屋の跡を継がせたのは、大分日が経ってからのことでした。  月待ち     一 「あっしはつくづく世の中がイヤになりましたよ、親分」  八五郎は柄にもなく、こんなことを言い出すのです。 「あれ、たいそう感じちゃったね、出家|遁世《とんせい》でもする気になると、二三人泣く娘があるぜ」  平次は縁側に腰を掛けたまま、明日咲く鉢の朝顔の蕾《つぼみ》などを勘定しておりました。まことに天下泰平の姿で、八五郎の厭世論などには乗ってくれそうもありません。 「いつの世になったら、悪い事をする奴が無くなるのでしょう。喧嘩だ、殺しだ、泥棒だ、放火だと、毎日毎日悪い人間を追い廻して居るこちとらだって、大概イヤになるじゃありませんか」 「悪い奴と岡っ引、考えてみると、病気と医者みてえなものさ、どこまで行っても切りがないから、いい加減のところで十手|捕縄《とりなわ》を返上して、高野の山へでも登るとしようか。クリクリ坊主になると、額の寸が詰《つま》って、八五郎もとんだ良い男になりそうだぜ」  平次と八五郎の掛け合いは、相変らず無駄が多くなって来ました。七月二十七日もやがて昼近い陽射しで、縁側に掛けていても汗がにじみそうです。 「ところで、親分は、昨夜の月待ちをどこでやりました」 「俺は寝待ちさ。信心気がないようだが、この間からの御用疲れで、宵から一と眠りしてしまったよ」 「湯島台から明神様の境内、ことに芝浦|高輪《たかなわ》あたりは、大変な人出だったそうですよ」  七月二十六日の暁方近くなって出る月を、寝ずに待って拝むと、三尊の来迎《らいごう》が拝まれるという俗説があり、江戸の海辺や高台は涼みがてらの人の山で、有徳《うとく》の町人や風流人は、雑俳や腰折を応酬したり、中には僧を招じて経を読ませる者もあり、反対に幇間《たいこ》芸者を呼んで、呑んで騒いで、三尊来迎を拝もうなどという、不心得な信心者もあったわけです。 「お前はどこに潜《もぐ》って居たんだ」 「あっしは北の国で、歌舞の菩薩の張り見世を一とまわり拝んで、向柳原へ帰って寝てしまいましたよ。月待ちと洒落るほどは金がねえ」 「罰の当った野郎だ」 「親分、お客様のようですね」  八五郎は無駄話を切上げて、庭木戸を押しあけると、表口の方へ、外から廻って行きました。  それからしばらく、何やら押し問答をしていましたが、やがて、二十三四の浪人風の男を、後から押し込むように、追っ立てて来ます。 「この方が、親分にお願いがあるんですって」  それは、若くて貧乏臭くさえありましたが、短いのを前半《まえはん》に手挾《たばさ》んで、長いのは木戸のあたりで、鞘ごと腰から抜き、右手に持ち添えて小腰を屈めたあたりは、なかなかに、好感の持てるたしなみです。 「銭形の親分——でしょうな、私は芝口一丁目に住む、神山守《こうやままもる》と申すもの、折入ってのお願いがあって参りましたが」  顔をあげると、青々とした月代《さかやき》、眉が長く、唇がキリリとして、娘のように鼻白む風情です。 「お話というのは?」  平次はこの浪人者のために、縁側に席を設けさせました。 「芝口一丁日の金貸し、久米野《くめの》官兵衛殿が、昨日の夜半過ぎ、御自分の家の二階で、何者やらに殺されました」  神山守はさんざん躊躇した末、思いきった様子で話の緒口《いとぐち》を切りました。 「で?」  平次はその後を促しました。久米野官兵衛というのは、武家あがりの金貸しで、その名前くらいは平次も知っております。 「久米野官兵衛殿は、二階六畳の前の縁側に、月の出を待って居るところを殺されました。家中の者は、一人残らず階下《した》に顔を合せており、そのとき二階にいたのは、官兵衛殿の外には娘のお玉殿だけ。お玉殿が親殺しの疑いを受けてその夜の明けぬうちに、露月《ろげつ》町の金六に縛られました」 「お玉どのは親を殺すはずもなく、またそんな悪いことの出来る人でもありません。お玉どのを縛って行く金六の跡を追っかけて、いろいろ申してはみたが、鬼の金六と言われた御用聞が、私の言うことなどには、耳もかしてはくれません。この上は銭形の親分にすがる外はないと思い芝口から飛んで来たものの、さて、なんと言って親分に頼んだものか、きっかけがむつかしくて愚図愚図しておりました」  神山守は、両刀の見識も捨てて、町の御用聞の平次に、一生懸命にすがるのでした。 「仰しゃることはよくわかりましたが、御用聞にも御用聞の縄張りらしいものがあって、露月町の金六の縛ったものを、あっしが神田から飛込んで行って、すぐ縄を解かせるというわけには参りません」 「でも、お玉殿が、潔白とわかれば——」 「待って下さい、神山様、あっしがここに居て、貴方のお話を伺っただけじゃ、お気の毒ですが、久米野のお嬢さんが、潔白か潔白でないか、わかるわけがないじゃありませんか」 「でも、久米野の主人が殺された頃、お玉殿が、あの家の二階に居なかったとわかれば」 「それは申すまでもない事です。お嬢さんが二階に居なかったとわかれば、露月町の金六親分は鬼でも蛇でも、お嬢さんを縛るわけがないじゃありませんか」 「では申しましょう、親分」  神山守は思い定めた様子で、屹《きっ》と顔をあげました。興奮に色づいた顔は美玉《みたま》のようで、この若い武家は、どうかしたら、大変な罪を作っていないか——と平次は感じたほどです。 「包み隠しのないところを仰しゃって下さい、お嬢さんの命を救うために」 「そのお玉どのは、——何を隠そう、あの時刻——ちょうど子刻《ここのつ》(十二時)から丑刻《やつ》(二時)前まで、ツイ裏の私の浪宅に来て居たとしたら、どんなものでしょう」 「あなたは独り住いで?」 「左様、外に見た者のないのは、今となっては物足りないが」  神山守は呻吟するのです。若い娘が、若い男の独り住居の家へ、真夜中の子刻から丑刻近くまで居たということは、いったい何を意味するでしょう。 「畜生、うまくやって居やがる」  それを聴いて、大きな舌鼓を打ったのは、外ならぬ八五郎だったのです。     二  神山がトボトボと帰った後、 「あのちょいと」  平次の女房のお静は、お勝手から容易ならぬ顔を持って来ました。何がなんであろうと、客と応対して居る平次の前などへ、物々しい声を掛けるお静ではありませんが、 「どうしたというんだ、晩の米くらいはあるはずじゃないか」  平次は驚く色もなく、こんな調子で受けます。 「そんな話じゃありませんよ。あのお侍のお客の話を、若い女の人が、お勝手の羽目に吸いつくようにして、皆んな立聴きしていましたよ」 「そいつは、八」 「合点」  平次の目配せ一つで、八五郎は飛出しました。  が、しばらくすると路地一パイに、 「あれ、何をするのさ、いけ好かない」 「何を好い女の気でいやがる。銭形の親分の家を覗いて、無事に帰れると思うのが間違えだ。サア、来やがれ」 「行くよ。行きゃいいだろう。痛いじゃないか、無暗《むやみ》に手なんか引張って。——良い女の手を握るのを役得の気でいやがる。畜生ッ」  こう鳴らしながら、二十二三の良い年増が、八五郎に引立てられて、木戸の内へ入って来るのでした。  それは渋皮《しぶかわ》の剥《む》けた、なかなかのきりょうでした。が、身扮《みなり》は大したこともなく、顔には紅白粉の気さえありませんが、嬌瞋《きょうしん》を発すると、燃え立つような情熱が、ともすれば八五郎を圧倒するのです。 「お前はなんだ」  平次は備を直しました。この女には鉄火なところがあって、今まで付合った、浅黄《あさぎ》色の青侍とは、少しばかり違うところがありそうです。 「馬鹿におしでない。お勝手を覗いたくらいのことで、お調べは大袈裟じゃないか。第一貧乏臭いお白洲《しらす》ったらありゃしない」  女はポンポン言いながら、沓脱《くつぬぎ》ぎの下に立っているのです。 「貧乏くさいお白洲はいいな、ハッハッ、ハッ。野暮なせりふになって済まないが、芝口一丁目の久米野官兵衛殺しは、放っちゃ置けないぜ。気の毒だが、お前の名前と用事を言ってもらおうか」 「私が、殺したとでも言うのかえ」 「気の毒だが、そんな事になるだろうよ。お前の名は」 「国《くに》、久米野の姪《めい》さ。給金のない下女と世間では思って居る」  久米野官兵衛の姪のお国が、なんの目論見があって、神山守をつけて、ここまでやって来たのでしょう。 「この久米野の姪が、何用あってここへ来たのだ」 「銭形の親分に逢いに来たのさ」 「何?」 「銭形の親分に逢って、叔父を殺した下手人を挙げる積りで来ると、一足先にやって来た浪人者の神山守さんが、お玉さんを助けたさに、一生懸命の嘘八百じゃないか」 「?」 「二人の口が合いさえすれば、どんな証拠でも捏《で》っちあげられるものなら、世の中に処刑台《おしおきだい》に乗る馬鹿は無くなるよ」 「……」 「ね、親分、なんとかしてやって下さいよ」 「なんにもすることは無いじゃないか。露月町の金六が、下手人を縛ったなら、俺が口を出すまでもなかろう」 「でも、金六親分ではタガがゆるいから、神山守があの調子で無実の証拠を掻き集めると、三日も経たないうちに、お玉さんを許して帰すに決っている」 「するとお前は、お玉は親殺しの下手人に違いないと言うのか」 「そうは言やしません。外にも叔父を怨《うら》んでいる者は二人や三人はあるんだから、誰がやったかわからないが、お玉さんだって、この節《せつ》の様子では、親くらい殺し兼ねませんよ」 「お玉は何を怨んでいるのだ」 「好きな男と一緒にしてくれないばかりでなく、隣の方を向いた窓まで、皆んな釘付けにするようじゃ、お玉さんがどんなに人間が素直でも、親を怨みたくもなりますよ」 「ところで、変なことを訊くが、お前は久米野の家で下女代りにコキ使われて居ると言ったが、それで腹の底から諦めているだろうな」 「……」 「口のききよう、化粧の渋さ、お前はただの素人じゃないようだ。久米野の家に引取られる前は、何をしていた」 「親に死に別れて食えないから、神明様の前で働いて居ましたよ。それが悪いんですか、親分」 「誰も悪いとは言やしない。——ところでもう一つ、久米野の家の者というと誰と誰だ」 「内儀《おかみ》——と言ったって、お玉さんの母親は五年前に亡くなってお妾上りのお紺《こん》さんと言うのが、内儀の位に済まして居ますよ。四十になるやならずの、まだ脂の乗った——」 「それから?」 「手代の敬吉、三十五のちょいと良い男、勘定は細かいが、胆の太い」 「外には?」 「私の外に下女のお徳と、下男の三次、二人は喧嘩ばかりしているが、根が好い人達で、お徳は四十女の癖に大の喰いしんぼう、つまみ喰いの名人。下男の三次は二十五六、ヒョットコの国生れの癖に、道楽強くて勝負事が好きで、夜なんか滅多に家に居たこともありません」  この女の達弁は、さすがの八五郎をも辟易《へきえき》させます。神明前の怪しい茶店で、筋の悪い客にもみ抜かれたせいでしょう。  話やら弁解やらが一とわたり済むと、お国はしなを作って暇乞いをし、さっさと帰ってしまいました。 「恐ろしい女ですね、親分」  その後姿が見えるうちから、八五郎は顎を長くしてうめくのです。 「妙な匂いがするよ、行って見ようか。八」 「ヘエ、親分が、ね」 「露月町の金六は鬼という綽名《あだな》はあるが、根がわからねえ男じゃない、行って話して見たうえ、トコトンまで調べて見たくなったよ」  平次は手早く仕度をすると、八五郎を追い立てるように、七月の真昼の街を、現場に向いました。     三  芝口一丁目の久米野官兵衛の家へ着くと、露月町の金六は、手下の下っ引二三人とともに、厳重に表裏を固めておりました。. 「おや、銭形の」  妙なところへ、神田からはるばる銭形平次がやって来たのは、金六にもフに落ちない様子です。 「変な話を訊いたんで、ちょいと覗きたくなったんだが、悪く思わないでくれ、露月町の親分」  平次は打ちとけた態度で、ざっと先刻の一埒、浪人者神山守と、姪のお国がやって来たことを説明しました。 「そうか、そんな事だったのか。——昨夜その時刻に二階にいたのは娘のお玉だけだとわかったが、若い娘が自分の口から、その時分は、お隣の浪人者と逢引していたとも言い兼ねたんだろう。ともかく腰縄を打って、番所に預けてあるが、何しろ主人の官兵衛は名代の金貸しで、人に怨みを受けているから、詮索をして行ったら下手人が多過ぎて見当が付かなくなるかも知れないよ」  露月町の金六は苦笑いをしながら、久米野の家に誘い入れました。 「八、お前は近所の噂を掻き集めてくれ。世間の人は、金持の内証話なんてものは、思いのほか知ってるものだ、如才もあるめえが——」 「おっと合点、どうせ情事《いろごと》の揉めか、金の怨みでしょう。そんな事なら」  八はポンと胸を叩くのです。もっとも順風耳の八五郎と言われている位、噂を集めることと、 口の固い相手に物を言わせる腕にかけては天稟《てんぴん》の名人で、平次ごときは足許にも及ばなかったのです。  八五郎がどこともなく飛んで行った後、平次は改めて久米野の家に入りました。芝口一丁目の東側、砂浜を隔てて近々と海を眺める二階家はなかなかの洒落た住居。両刀を捨てて金貸しを始め、金が出来てから遊芸やお茶に興味を持ったという、主人官兵衛の好みがよく現われております。  入口の八畳に居たのは、手代の敬吉、三十五六のちょいと良い男、物腰は丁寧ですが、口の重いたちとみえて、平次と金六が入って来たのに、なんの挨拶もせずに、少しばかり三白眼《さんぱくがん》を伏せただけです。  店の裏からすぐ梯子段で二階に登ると、二た間つづきの奥の六畳に、主人官兵衛の死骸を運び込み、まだ葬いの仕度にも取りかからず、女二人がウロウロしておりました。それは妾のお紺と、先刻明神下の平次の家を訪ねた姪のお国ですが、軽く目礼しただけ、眉も動かさないのは、なかなかの強《したた》かさです。  妾のお紺は、お国が説明したとおり、小肥りの脂ぎった大年増で、決して醜くはないのですが、なんとなく不気味な表情を持った、お国の渋好みとは、まさに対照的な感じのする女です。  平次は二人の女の間を通って、主人官兵衛の死骸に近づきました。金六の手下が内外を固めているために、親戚の者も、近所の衆も近寄れなかったためか、葬いの仕度も手につかない様子で、仏様の枕元には水と線香が上げてあるだけ、生前の豪奢な生活に比べて、むしろ物の哀れを感ずるお粗末さです。  官兵衛というのは六十歳と聴きましたが、渋皮色の皮膚、骨張った身体、なんとなく逞ましく醜く荒々しく、そのうえ武芸のたしなみも一と通りはあったという位ですから、どう考えても、女子供一人では、易々と殺されそうな人間ではありません。  平次が死骸を調べるうち、お紺お国の二人は、遠慮したものか、無言のうちに誘い合せて、裏梯子を下へ降りてしまいました。二階に残ったのは、平次のほかには、露月町の金六だけ。 「傷は前から、左の胸を刺したものだが、これだけの人間を、前から刺すのは大変な腕前の下手人じゃないか」  死骸の胸をはだけて、平次は舌を巻くのです。六十歳の金貸しと言っても、武家崩れの非凡の体格で、しかも刃物は真っすぐ突っ立った様子です。 「ところで刃物は?」  平次が訊くと、 「鎧通《よろいどお》しだ。お定まりの九寸五分、武家の持物に違いないと思ったら、主人の官兵衛の手箱にあった品だそうだ」 「見付かったのか」 「庭に捨ててあったよ」  金六は縁側の隅から、手拭に包んだ一口の短刀を持って来て見せました。拵《こしら》えも金具もよく、柄《つか》の鮫《さめ》に血がこびり付いているのは、なんとなく不気味です。 「どんな具合に」 「一寸ばかり深く、土に突っ立って居たよ」 「二階から抛《ほう》ったのだな、——鞘《さや》は?」 「見えなかったよ」 「ところで露月町の親分」  平次の声は改まりました。 「この首の様子は変じゃないか」 「いや、気が付かないが」  皺《しわ》にも贅肉《ぜいにく》にも、見たところなんの変化もなく、絞殺した様子などは、馴れた眼にも見出せなかったのです。 「それが不思議なんだよ。これほどの男を殺すのは、毒害か首を絞めるほかはないと思うが、口の中にも、身体にも、毒の跡は一つもなく、首を絞めた様子もない」 「だから胸を刺したに間違いはあるまい。このとおり単衣《ひとえ》の上から傷口があるし、刃物まで見つかって居るんだ」  金六は銭形平次の執《しつ》こい疑問を説き伏せるように、一言一言力をこめて言うのです。 「それはわかって居るが。——胸を突かれて心の臓を破って死んだにしては、血が少な過ぎるよ。別に拭いた様子も、掃除した跡もないのに、縁側に少し血だまりがあるほかに、単衣に少し付いて居るだけじゃないか。それに、短刀で胸を刺されれば、どんな急所をやられたにしても、死にきるまでは、苦しみも動きもするだろう。それが縁側にたった一カ所、行儀の良い血溜りが一つあるきりは変じゃないか」 「?」 「それに、この恰幅《かっぷく》だ。部屋の中には灯《あかり》も点いて居たことだろう。鼻の先へ来て、短刀で突いて出るのを、黙って突かせる道理はあるまい」 「なるほどね、そう言えばそのとおりだが——」  露月町の金六には、これ以上の智恵はありません。     四 「これはなんだろう」  縁側の柱に、少しばかり疵《きず》のあるのを、平次は指先で撫で廻しておりましたが、それは柱の面が少し摺《こす》れただけで、決して新しい疵でないとみたか、そのまま、元の座に還って、金六の連れて来た、内儀のお紺を迎えました。 「御用で?」  相手の身分にかまわず、男さえ見れば、クネクネと身体で表情をする、白粉の濃い女です。肉体の豊満さを買われて、素人から妾奉公に出た女が、無暗に玄人《くろうと》の真似をして、執っこく、脂っ濃く取廻すと言った性《たち》でしょう。 「昨夜のことを訊きたいが」  平次は無表情に問いかけました。 「毎年主人の好みで月待ちなんかやりますが、ただ飲んで夜更かしをするだけですから、敬吉どんも私達も、階下《した》へ逃げて、休むことばかり考えております。遊び事もなく、客も芸人も呼ばない月待ちなんか、ずいぶんつまらないものですから」 「……」  平次は黙って先を促しました。 「夜半頃は、主人も大分酔ったようでした。月待ちに寝ちゃ悪いと言いながら、自分がクラクラやるものですから、私違は皆んな階下《した》へ降りて、店の八畳で、お行儀を悪く寝そべったまま、なんか食べておりました。敬吉どんとお国さんと私の三人です。下女のお徳はお勝手におりましたし、下男の三次はなんとか言って遊びに出てしまったし」 「お玉さんは?」 「二階の父親の傍に居ることとばかり思っておりました。それが丑刻《やつ》少し前、二階から飛降りて来て、——大変、大変、父さんが——と騒ぐじゃありませんか」 「それまで、お玉さんは確かに二階から降りなかったのだな」 「表梯子へは確かに降りません。当人は裏梯子を降りて、ちょっと外へ出たと言いますが、若い娘が、夜中過ぎに、まさか、ねえ」  お紺の言葉には容易ならぬ含みがあるのです。 「お玉さんと父親の仲は悪かったそうじゃないか」 「主人はやかましくて、——武家はもう懲々《こりごり》だから、町人の金儲けのうまいのを婿にする、貧乏浪人なんかもっての外だ、——と神山さんとの仲を割くことばかり考えておりました」 「外に家中で、主人を怨んで居る者はなかったのか」 「そんな不心得なものは、あるわけも無いじゃありませんか。私には大事な夫ですし、敬吉どんは主人が死ねば拠り出されるし、お国さんだって、神明前の水茶屋に居たのを、救い出されて来た人ですから、恩があっても怨みなんかあるはずもありません」 「その人達の仲は?」 「さア。あんまり仲好しとは申されませんよ。お国さんは私を素人臭いとか野暮ったいと言って馬鹿にするし、敬吉どんは、妙に忠義立てして、主人に内証では、一文も店の金を融通してくれないし、平常《ふだん》は睨《にら》み合いみたいなものですよ」  お紺の言葉は、なかなかよく筋が通ります。平次はお紺を階下《した》へやると、裏梯子を降りて、裏口を出ました。細い道一つ隔てて、そこには五六軒の長屋があり、その一軒は神山守の浪宅だったのです。 「御免下さい」  丁寧に訪れると、障子を開けて、 「あ、銭形の親分」  神山守は不意を喰って目を丸くして居ります。 「とうとうやって来ましたよ。ところで、庭から家の中を、少し見せて頂きたいのですが」 「さアさアどうぞ、遠慮なく」  平次は家の中へ入りましたが、夜の物とお勝手道具の外には、大小と本が五六冊、それっきりという貧しい浪宅で、目に立つものはなんにもありませんが、押入れの中に、浪人神山の敷きそうもない可愛らしい女座布団が一枚と、その上に女物の袷《あわせ》が一枚、丁寧に畳んで置いてあるのが、意味深長な艶《なま》めかしさです。  やがて庭へ出た平次は、小さい小さい植込みの下から、鎧通しの短刀の鞘を一つ見付けました。蝋塗《ろうぬり》の肌が水気を含んで、妙に意味あり気です。 「これを御存じありませんか」 「いや、拙者のものではない」  神山守は首を振るのです。植込みの上はすぐ板塀で、外から投げ込めば、ずいぶんこの辺へ落ちそうでもあります。  この上は大した収穫も無さそうだと思って、フラリと外へ出ると、先刻噂を掻き集めに行った八五郎が、平次を捜しながら、向うからやって来ました。 「どうした、八。役に立ちそうな話はあったのか」 「大ありですよ、浪人神山守と、お嬢さんのお玉さんの逢引なんか、町内中の評判で」 「外には?」 「主人の官兵衛は——死んだ者の悪口を言うわけじゃないが、因業《いんごう》で欲が深くて、助平で強情で」 「台なしじゃないか」 「姪のお国は浮気で鉄火で」 「敬吉との仲は?」 「お国の阿魔は人形喰いだから、敬吉は良い男に違いないが、あんなヒネたのなんか振り向いてもみませんよ。その代り内々は神山守のところへ、お菜《かず》を運んだり、遊びに行って、嫌がられながらも長話をしたり」 「お紺は?」 「あの女は少し足りないようですね。手代の敬吉とおそろしく仲が悪いそうで——」  八五郎の報告はそれでおしまいでした。     五  お勝手の下女お徳は、平次と八五郎が入ってくると、何やらつまみ喰いを隠して前掛で顔などを撫でております。 「心配するなよ、月待ちの御馳走の残りを調べに来たわけじゃないから」  八五郎はまた余計な口をききます。 「あら」  などと、四十女の赤くなるのは、見事でしたが、平次はそんな事に構わず、 「昨夜お前はどこに居たんだ。夜半から騒ぎのあった時までの間だよ」 「ここに居ましたよ。いつ酒のお燗を直せと言われるかも知れないんですもの」  おそらく土竈《へっつい》の蔭で、居眠りでもして居たことでしょう。 「内儀と手代の敬吉とお国さんは、子刻《ここのつ》過ぎは階下《した》にいて、なんか食べていたそうだな」 「大きな声で話していましたよ。階下にいたことは確かですが、なんにも召し上らなかったようです。お酒くらいは少し飲んだかも知れませんが」 「お国と内儀のお紺は、仲が好いのか」 「悪くはありませんが、大して好いとも言えませんよ」 「内儀と敬吉は」 「あんなに、お互いの悪口を言う人はありませんよ。向い合っていると、仲が好いのに、蔭に廻ると、滅茶滅茶な悪口ですよ。変な人達ですね」  下女のお徳との話を切上げて、平次は家へ入ると、店格子の中で算盤《そろばん》を弾いている、手代の敬吉の前に膝を立てました。 「番頭さん、忙しそうだね」 「ヘェ、主人が亡くなると、金の出入の始末だけでもはっきりさせて置かないと、私の落度になります」 「身上《しんしょう》は大したことだろうな」 「思ったほどではございません。もっとも現金はたいてい動いておりますから、貸し金を取立てたら、三千両近いものになるでしょうが、あとは地所と家作で」 「此家《ここ》の後は、誰が取るのだ」 「お嬢さんでございますよ、——もっともあんな事になっては、この先どうなるか、私では見当もつきません」  敬吉の眉が曇るのです。親殺しで縛られて行った、お玉の上を案じての言葉でしょう。 「お前は、内儀さんと仲が悪いそうだね」 「とんでもない。主人をつかまえて、仲が良いも悪いもあったものじゃございません、——もっとも、虫のせいというものがありますから、好きになれないのは、致し方もありませんが——毎日顔を合せると、ツイ胸も悪くなるわけで、ヘエ」 「いつから奉公しているんだ」 「もう十年にもなりましょうか、私も四十前に世帯でも持ちたいと思っておりましたが、不意に主人に死なれては、動くわけにもなりません」  敬吉の話はしんみりしてしまいます。  隣の部屋にしょんぼりしている姪のお国は今朝とは打って変ってしとやかでした。 「親分。こううっとしくちゃ叶いませんね、なんとかして下さいよ。——それにお玉さんだって、親殺しにされちゃ可哀想だし」  こう言った調子です。 「大層しおらしくなったね。ところで、ゆうべ子刻《ここのつ》から先、騒ぎのあった時まで、内儀と敬吉とお前は、階下《した》の八畳から一度も外へ出なかったのか」 「え、生憎、小用にも立たないから、人殺し野郎に、勝手なことをされてしまいましたよ」 「その人殺し野郎を誰だと思う。武芸の心得があって、身体の丈夫な主人を、並大抵の者では殺せそうもないが」 「だって、叔父さんの上を行く武芸の達人なら殺せるでしょう」 「なんだと?」 「裏の御浪人神山守さんは、あんな綺麗な男振りで、ちょいと役者のようだけれど、腕の方は大したものですってね」 「?」 「裏梯子から、そっと引入れる術《て》はありませんか、親分」  これは実に驚くべき毒舌でした。さすがの平次も受け応えに困って眼を見張ったほどです。 「お前は、御浪人の神山守が、下手人だというのか」 「とんでもない、私がそんな事を言うと、世間の人は、私があの人に岡惚れして居たことを知って居るから、口惜しまぎれに、神山さんを困らせにかかって居ると言うでしょう」  先から先へ、この女の智恵はくぐって行きます。     六  下男の三次は外出中、家中の者に逢った平次は、金六に案内させて、番所に留め置いた娘のお玉に逢ってみることにしました。 「銭形の親分だ、隠さずに言え」  金六の声に、ハッと顔を挙げたお玉を見て、平次は一と目で『これは無実だ』と思ったのも無理はありません。  それはさして良いきりょうでもなく、顔の道具もはなはだ不揃ですが、銀の粉をまぶしたような皮膚、桜色の頬、大きい眼、素直な鼻、わけても泣き出しそうな眉の曲線が非凡で、この世の中には、人に対する好意と、やるせない恋しか知らないような、まことに典型的な町娘です。 「昨夜のことは、神山さんから詳しく聴いたが、なんか外に気のついた事はなかったのか」  平次は静かに訊ねました。 「神山様の家から帰って、裏梯子を二階へ登ると、父さんがあんなになって——」 「?」 「その時、私は縁側の板敷の上に、白い長いものを見ました。輸のようになって、かなり太いものでした。でも、表梯子を降りて、皆んなに知らせて戻って来た時までは、確かにその白い長いものがあったのに、まもなくどこへ行ったのか見えなくなってしまいました」 「それから」 「それっきりです」 「灯《あかり》は点いて居たのだな」 「お月待ちだからと言って、わざと一本|灯芯《とうしん》にしましたが、行灯《あんどん》が点いてはいました」 「内儀と敬吉の仲が悪かったそうだが?」 「さア、私は」  お玉はそれ以上物を言いたくない様子でした。 「ともかく、もう少しここで辛抱してくれ。決して悪いようにはしないから」  平次はツイこの娘を慰めてやりたい気になるのです。 「あの、神山様はどうなるでしょう」  お玉にしては、そればかりが心配なのでしょう。 「心配するな、あの浪人にはなんの疑いもない」 「……」  お玉は口の中で、そっと礼を言ったようです。  そこからもういちど芝口一丁目へ引返して来ると、金六は道中《みちなか》で若い男を一人つかまえて何やら話し込んでおります。 「銭形の親分、これが久米野の下男の三次だよ。昨夜は月待ちの人混みに浮かれて、自分の家へ帰らなかったが、今朝はあの騒ぎで、親類から寺を廻り、いま帰って来たところだ」  金六に引き合せられたのは、なるほどお国がヒョットコの国から来た男というだけあって、醜男《ぶおとこ》ではあるが、なんとなく人付きの良い、道楽者らしい肌合いの男でした。 「お前にぜひ打ちあけて貰いたいことがあるんだが」 「ヘエ、ヘエ、どんなことでしょう」 「お国とお内儀の仲だ」 「馬鹿と利口で、妙に反《そり》が合いますよ。野暮と意気と言ってもいいでしょう」 「もう一つ、内儀と手代の敬吉の間は、お互いに悪口を言い合ってるそうだが——」 「口でくさして心で惚れて——という小唄があるでしょう。年上の内儀の、敬吉どんを見る眼は唯事じゃありませんよ。もっとも敬吉どんは恐ろしく利口だから、口じゃ打《ぶ》ちこわしな悪口を言いますがね」 「するとどういうことになるのだ」 「内儀の不心得ですよ。ガマ蛙のような六十の旦那より、三十五になったばかりの、小意気な敬吉どんが悪いはずはありません。三々九度で乗込んだ貞女|畠《ばたけ》の女とはワケが違いまさア」 「俺もそんな事だろうと思ったよ。二人の悪口の言い合いは、あんまり度を過ぎるから、かえって空々しく聴えるんだ」 「それでどんな事になるんです、親分」  八五郎はもう、事件の解決の近いことを、本能的に嗅ぎ出した様子です。 「これから家捜しだよ。露月町の親分は、子分衆を皆んな集めて、久米野の家の表裏を固めてくれ。逃げ出した者があったら、誰でも構わない、一人残らず、縛り上げるのだ」 「何を捜しゃいいんです、親分」 「白い帯だよ、丸グケの帯だよ。芝居の児雷也《じらいや》の締めるようなやつだ」 「ヘッ、変なものですね」  配置が出来ると、 「それッ」  一ぺんに飛込んだ平次と金六と八五郎、それに金六の下っ引が二三人、階下《した》と階上《うえ》と二た手に別れて部屋部屋を家捜ししました。家は広く、調度は多いのですが、捜す物がはっきりしているので、やがて内儀のお紺の部屋を捜して出た八五郎が、 「あったあった」  逞ましい丸グケの帯、長さ二間あまりあるのを見付け出して、勝ち誇った勢いで二階に居る平次と金六のところへ持って来たのです。 「なんだえ、これは?」  金六はまだ、何が何やら意味はわかりません。丸グケの帯は、丈夫そうな羽二重を、人間の腕ほどの太さにクケたもので、その中には普通の丸グケのように、単に綿を入れてふくらましたものではなく、芯《しん》に丈夫な麻縄を入れ、その上を綿と真綿で詰めて、おそろしく厳重に出来ておりますが、表の用布、つまり丸グケにした羽二重は、ひどく皺になって、真中のあたりに、大きな結び玉さえ出来ているのです。  その丸グケの帯を、念入りに見ている最中、 「や、御用ッ、逃げるか、野郎」  階下《した》ではバタリバタリという音、平次と金六が二階から飛降りると、内儀のお紺と手代の敬吉が、逃げ出そうとするところを、待機していた下っ引に捕えられ、苦もなく縄を打たれている騒ぎです。  それを面白そうに、黙って見ているのは、姪のお国。 「逃げないのか、お前は」  平次はその前に立って、ピタリと胸のあたりを指さします。 「私はなんにも悪いことをした覚えはありませんよ、親分」  自若《じじゃく》として、顔の色も変えないお国です。 「いや、あの時お前は裏梯子の下で、見張りをしていたはずだ。そして店の八畳に三人、どこへも出ずに、顔を並べていたと偽の証人にもなったはずだ」  平次は追及の手を緩めません。 「……」 「お前は今朝、神田の俺の家へ来て『二人で口を合せさえすれば』とお玉と神山守のことを言ったろう。それがお前の智恵だったんだ。お玉と神山守はそんな悪智恵はなかったが、お前は『三人で口を合せた』ことを白状したようなものじゃないか」 「えッ、勝手にしやがれ。どうせ私はなんにも知らないんだから」  お国はまだ白を切るつもりでしょう。     *  事件はまもなく解決しました。お紺と敬吉は主殺しで極刑に処せられ、お国は罪の疑わしい者という酌量で、江戸を追放され、それっきり行方不明になり、神山守は改めて久米野に婿入りし、お玉とともに堅い商売を始めました。八五郎のせがむのに応えて、ある日平次は、こう絵解きをしてやったのです。 「お紺と敬吉は、主人の官兵衛を殺して、その罪をお玉に背負わせ、そっくり久米野の家を横奪りしようとしたのさ。お国は神山守に惚れて、お玉憎さにちょいと手伝ったのだろう。翌《あく》る日神山守が神田の俺の家へ来たのを追っかけて様子を見に来たが、自分も見付けられて、出鱈目《でたらめ》を言ったのが、ことの起りさ」 「なるほどね」 「主人官兵衛は心の臓をえぐられて居るのに、血の出ようが少なく、それに、血溜りは少しも乱れずに、一カ所になったのは、息が絶えてから刺されたものに違いあるまい」 「ヘッ」 「刺される前に死んで居たとすれば、毒害でなければ、首を絞められたことだろうと思ったが、首筋に絞め殺した跡が無い。そこでフト、柔術の絞めのことを考えたよ。柔術の方で、人間の腕で絞めて、絞められた者がよく落ちることがあるが、上手に絞められると、喉仏も痛まず、落ちても首へ跡がつかないのだ。そこで、人間の腕のような太い柔かいもので絞めたのではあるまいかと思った」 「驚きましたね」 「が、一人では絞められない。相手が強過ぎたのだ、で、丸グケの一方を柱に縛って置き、酔ってウトウトしている官兵衛の首にその丸グケを一巻きして、敬吉とお紺の二人で一方の端を引いたに違いあるまい。一人で引いては、苦しまぎれの官兵衛に手ぐり寄せられるからだ」 「ヘエ、ひどい事をしやがる」 「首に縄の跡がなければ、頓死《とんし》でも済まないことはない。と思ったが、官兵衛が死んだのを見て階下《した》へ降りてから、万々一、息を吹返したらどうしよう——と、それが心配になった。そこで敬吉が引返して、短刀で官兵衛の胸を刺したことだろう、血溜が静かだったのも、血の少なかったのもそのためだ」 「……」 「お玉が裏梯子から二階へ来て父親の死んで居るのを見たとき、白い太い長いものが眼に入ったのは、その丸グケを片付ける隙が無かったためだ。後でお紺は気がついて隠したことだろうが、とにかく、お玉に妙なものを見られたのが天罰というものだろう」 「驚いた悪人どもですね。だからあっしは、ツクヅク世の中が嫌になると言ったでしょう」 「もっとも世の中には、お玉のような良い娘もあるよ。気長に生きる工夫をすることだ」  平次は一事件が済んでホッとした様子です。  八五郎の恋人     一 「親分、お早よう」  飛込んで来たのは、お玉ガ池の玉吉という中年者の下っ引でした。八五郎を少し老けさせて、一とまわりボカしたような男、八五郎の長《な》んがい顔に比べると、半分くらいしかない、まん円《まる》な顔が特色的でした。 「玉吉|兄哥《あにい》か、どうしたんだ、大層あわてているじゃないか」  明神下の平次の家、障子の隙間からヌッと出したのは、その八五郎の長んがい顎だったのです。 「銭形の親分は?」  お玉ガ池の玉吉は、気抜けがしたように、ぼんやり立っております。 「留守だよ、笹野様のお供で、急の京上りだ」  与力筆頭笹野新三郎は、公用で急に京都へ行くことになり、名指しで銭形平次をつれて行ったのは、つい二三日前のことだったのです。 「そいつは弱ったな、帰りは?」 「早くて一と月先、遅くなれば来月の末だとよ、そのあいだ俺の叔母は、ここへ留守番に泊り込みだから、叔母の家に厄介になっている俺は、日に三度|店屋物《てんやもの》を取るわけに行かねえ、口だけはここへ預けて、向柳原から通っている始末さ」 「弱ったなア」 「何を弱っているんだ、銭形の親分の留守中は、憚《はばか》りながら俺は城代家老さ、困ることがあるなら遠慮なく言うがいい、金が欲しいなら欲しいと——」  大きなことを言って、八五郎はそっと懐中を押えました。その中にある大一番の紙入には、穴のあいたのが少々入っているだけだったのです。 「そんな話じゃないよ、矢の倉で殺しがあったんだぜ、八五郎|兄哥《あにい》」 「そいつは大変じゃないか、銭形の親分ほどには行かないが、大概のことは俺で裁けるつもりだ。さア、案内してくれ」 「そうかなア、大丈夫かなア」  玉吉はひどく覚束《おぼつか》ながりますが、八五郎では嫌とは言い兼ねて、ヒョコヒョコと先に立ちます。 「大丈夫かなアは心細いぜ、おい、玉吉兄哥、こう見えたって、銭形平次の片腕と言われた、小判形の八五郎だ」  胸をドンと叩きますが、くたびれた単衣《ひとえ》の裾《すそ》を端折《はしょ》ると、叔母が丹精して継《つぎ》を当てた、浅葱《あさぎ》の股引がハミ出して、あまり威勢の良い恰好ではありません。  事件のあったのは、矢の倉の稲葉屋勘十郎。 「内儀《おかみ》のお角《つの》が、昨夜風呂場で、障子越しに刺され、その場で息を引取ったよ」  道々お玉ガ池の玉吉は説明してくれました。稲葉屋勘十郎というのは、どこから流れて来たともわからぬ浪人者で、稲葉屋に用心棒代りの居候で入り込んでいるうち、主人が死ぬとそのままズルズルと後家のお角の婿になり、わずか四五年のあいだに、日本橋から神田へかけても、指折りの良い顔になった男でした。 「すると内儀は、金の怨みでなきゃア、色恋沙汰じゃないか」 「金の怨みなら、主人の勘十郎がやられるはずさ、殺された内儀は、三十八の大あばたで、色恋とは縁が遠いぜ」 「ともかくも、現場を見ての上だ」  二人が矢の倉の稲葉屋へ着いたのは昼少し前、見廻り同心が町役人を立会わせて、検死が済んだばかりという時でした。 「向柳原の八五郎親分? それは御苦労、銭形の親分は留守だってね」  主人の勘十郎ははなはだ無愛想でした。平次の留守をどこで聴いたか、ともかくも、八五郎風情が来たのでは、と言った語気が、妙に皮肉に聴えます。  年の頃、四十二三、面ずれも竹刀《しない》だこもある立派な男で、稲葉屋の身上《しんしょう》のお蔭であったにしても、わずかの間に町人達に立てられて、立派に顔のきける男になったのも無理のないことでした。押出しも弁舌もまことに申し分のない旦那衆です。 「ともかくも、見せて貰いましょう」  八五郎は思わず肩肘を張りました。 「あ、いいとも、どうぞ、こちらへ」  主人勘十郎は先に立って案内します。  仏様は階下の南向八畳に、近所の衆や親類の人達に護られて、しめやかに納棺を待っており、八五郎と玉吉の姿を見ると、人々は言い合せたように席を開きました。  死骸は、評判のとおり四十近い醜い女——と言っても眼鼻立ちが悪いのではなく、松皮庖瘡《まつかわほうそう》で見る影もなくなっており、そのうえ横肥りのちんちくりんでまことに散々です。  傷は後ろから肩胛骨《かいがらぼね》の下を一と突き、よほど狙い定めたものでしょう。     二  やがて八五郎は、主人の案内で、風呂場を見せて貰いました。町家に内湯は珍しかった頃で、さすがに稲葉屋の豪勢さですが、それでも形ばかりの狭いもので、鉄砲風呂を据えると、あとは三尺の狭い流し、少し身体を動かすと、格子窓の油障子に背中が触ります。 「この障子に、身体の影の映ったところを、外から一と突きにやられたものらしい、中は灯《あかり》が点いていたから、見当に間違いはなかったはずだ」  勘十郎は油障子を指すのです。なるほどそう言えば、一ヵ所刀を突っ込んだらしい穴があいて、穴のあたりに、血の飛沫《しぶ》いているのも無気味です。 「刃物は?」  八五郎は親分譲りの調子で訊ねました。 「なかったよ、格子の外から突いたに相違ないから、刀は相当長いものだ、曲者は鞘に納めて、悠々と引揚げたものだろう」 「灯《あかり》は点いていたのですね、確かに」 「間違いもなく点いて居たよ、——さいしょ悲鳴におどろいて飛込んだのは、ツイ隣の部屋で、家内が湯から上がったら、すぐ続いて入るつもりで着物を脱ぎかけていた妹で、その妹の声で、お勝手の下女と、二階にいる私が飛んで来たのだ、私は一と足先に湯から上がって、二階で風を入れているところであったよ。下帯一つで曲者を追っかけて外へ飛出すわけにも行かず、飛出したところで刃物もなんにもなし、こんな困ったことはなかったよ」 「曲者の姿を見た人はありませんか」 「一階は一パイに開けて、私は格子窓に腰掛けていたが、チラと人の姿を見たような気がする」 「男でしょうね?」 「間違いもなく男だったよ」 「お心当りでも」  八五郎は押して訊ねました。主人勘十郎の言葉には、何やら含みがあるのです。 「満ざら心当りがないわけでもない」 「と、言うのは?」 「私は、五年前まで、さる大藩に仕えたが、人と争うことがあって浪人したのだ、その相手というのは」  勘十郎は言ったものかどうか、ひどく思い惑っている様子です。 「その相手は?」 「打ち明けても差支えはあるまい、阿星源之丞《あぼしげんのじょう》と言ったよ、私と同年輩で、腕の達者な大男だ」 「どちらの御藩で?」 「それは訊かないでくれ——もっとも阿星源之丞も、その後浪人して、江戸で細々と暮して居るということだが、どこに住んでいるか、家は知らない」 「その阿星という浪人者が、なんの怨みで御内儀を殺したんでしょう」  いみじくも八五郎は、この大切な疑いにたどり着いたのです。 「左様、私にも、それがわからない、が、阿星源之丞は、私と間違えて、家内を刺したのではないかな」 「ヘエ?」  八五郎は驚いて、少しノッポでさえある、主人勘十郎の身体を見上げました。 「私は背が高くて、家内は背が低い、それを間違えるはずも無いように思うが、だんだん考えると、妙なことに気が付いた」 「ヘエ?」 「風呂場には灯が一つ、手燭に立てた裸蝋燭《はだかろうそく》を、入口の敷居の内、狭い板敷に置いてある、それが家内を照すと、窓の油障子には、思いのほか大きい影法師になって映りはしないか」 「……」 「窓の障子には隙間も穴もなかったから、曲者は中を覗かなかったことは確かだ。窓の油障子に映った影法師目あてに、長いのを力まかせに刺した——としたらどうだ」 「なるほどね」  八五郎はことごとく感に堪えてしまいました。なんとなく高慢なところがあって、主人勘十郎、はなはだ人づきは良くありませんが、智恵の方は、八五郎などとは比較にならぬほど逞《たくま》しい様子です。 「外《ほか》に考えようはない、阿星源之丞というのは、西国訛《さいごくなまり》のある大男で、髯《ひげ》の濃い、眼の大きい、足が少し悪く、心持ちびっこを引いているはずだ、江戸の町の人間の海の中に入っても、いつかは必ず見付かるだろう」  なるほどその人相なら、すぐにもつかまりそうです。 「外に怨みを受けることはなかったでしょうか」  八五郎はもう一歩踏込みました。 「それはわからない、私は金を貸すのが商売だ、金を借りた者は、借りる時の心持を忘れて、ツイ貸し主を怨むものだ、ことに、家内はやかましかったから、ずいぶん人に怨みを買ったかも知れぬて」 「例えば、——その心当りはありませんか」 「一々は覚えていない。ボソボソ言っても大して根に持たない人間もあり、黙っていても煮えくり返るほど怨んでいる者がないともかぎらない」  勘十郎の話からは、なんにも得るところはありません。     三  風呂場の隣は廊下を隔てた二畳の部屋で、内儀の妹のお君というのが、姉が風呂場から出てくるのを、ここで待っていたことでしょう。この部屋は窓もなんにもない盲目《めくら》二畳で、風呂場に通ずる廊下以外には、出入する口もありません。従ってここにいたはずの妹のお君の目をのがれて曲者が風呂場に入る工夫はなく、同時に風呂場の外から刺された、姉のお角の死は、この部屋にいたお君とは、まったく関係のないことも明らかです。  その二畳の横手には、廊下の板敷から二階へ登る十三段の急な梯子《はしご》があり、昼でも真暗で、馴れない者には無気味な感じです。妹お君の悲鳴におどろいて、下帯一つの主人勘十郎が、二階から駈け降りたというのは、あの梯子段でしょう。  梯子段の先には思いのほか広いお勝手があり、そのお勝手の先に、下女のお直の四畳半の部屋があります。これがざっと北側の部屋割で、南側には、店と居間|兼帯《けんたい》の仏間《ぶつま》と、お角の死骸をおいてある八畳の客間と、それから妹のお君の部屋がならび、二階には主人夫婦の部屋とその次の間があり、ともかくも一と通りの構えです。  八五郎は玉吉と一緒に、下の部屋部屋を見廻って、それから二階へ登ってみました。大川まで一と目に見渡してなかなかの眺めですが、金持らしい用心堅固さで、窓という窓には全部格子がはめてあり、その格子が取りはずしの出来ないように、一々釘で留めてあるのは念の入ったことです。そのうえ釘は古く錆《さび》付いて、格子を動かした位でははずれそうもなく、主人は下帯一つの姿で、海を眺めながら、格子の内の張出し窓で安心して涼んでいたというのもうなずけます。  二階から降りると、下女のお直というのが、お勝手にうろうろしておりました。二十歳前後ですが、これは念入りの不器量、『妬《や》く女房千人並の下女を置き』と言った、川柳が連想させるように、内儀の醜くさが反影して苦笑させられます。  その内儀が殺された時のことを、 「お君さんの声でびっくりして風呂場へ飛んで行くと内儀さんはもう虫の息でした『苦しい』と言ったようでしたが、それもはっきりしません、それっきり息を引取ってしまいました、旦那様も私の後から、下帯一つで二階を降りていらっしゃいましたが、もう手のつけようもなかったのです。下男の九郎助は使いに出てまだ帰らず、私は若松町までお医者を呼びに行きましたが」  下女お直の話はそんなことで尽きました。 「内儀さんを怨んでる者はなかったのか」  八五郎はまた定石どおりの頭の良くない問いをくり返します。 「口やかましい人でしたけれども、気前の良い人でしたから、別に」  お直には見当もつかない様子です。 「主人との仲は?」 「妬《やき》もちはひどい方でした、でも、そんなに仲が悪いとも思いません、大抵のことは、旦那の方で折れていたようですから」  お直から訊き出せるのは、そんなことが全部でした。その時、 「あ、お客様?」  場所柄らしくない艶《あで》やかな声がして、お勝手がカッと明るくなりました、二十歳前後と見える成熟しきった美しい娘が、外から不意に入って来たのです。 「内儀の妹のお君さんだよ」  玉吉は、自分のものみたいな、得意らしい顔で、そっと八五郎に教えました。 「お君さん、どこへ行って来たんだ」  八五郎はようやく陣を立て直しました。どうも綺麗過ぎて、八五郎に取っては、容易ならぬ相手です。 「あら、八五郎親分ねえ、よく知ってるわ、向柳原へお稽古に行って、毎日親分の家の前を通ったんですもの」  お君はうるんだような大きい眼を見開いて、なつかしそうに八五郎を見上げるのです。 「ヘエ、そいつはちっとも知らなかったぜ」  江戸一番のフェミニストが、身近を往来していた、こんな綺麗な娘を知らなかったというのは、なんたる迂遠さでしょう。 「でも、親分は、そりゃえらい人なんですってね、顔を見られるのが怖かったわ」 「ヘエ、それは驚いたね」  エライ男にされたのは有難いが、娘に怖がられていたとわかると、八五郎この時ほど十手捕縄が怨めしかったことはありません。 「で、私になんか御用?」  お君の眼が大きく瞬きました。姉の死んだという翌る日で、日本一の真面目な顔ですが、その生真面目さが、いつほぐれるかもわからない、朝顔や月見草の、張りきった蕾を見るようで、たとえようもない魅力です。 「どこへ行って来たんだ?」 「小網《こあみ》町の浅野屋——叔父さんなんです、不断は往き来もしていないけれど、こんなときは、やはり相談しなきゃ」  それは深い仔細がありそうでした。殺された内儀のお角と、その妹のお君に取っては、本当の叔父に当る浅野屋惣吉は、入婿《いりむこ》の勘十郎と仲が悪くて、義絶同様になっているけれども、姉のお角が非業の死を遂げると、残された妹のお君は、いちおうは相談もして見なければならなかったのでしょう。 「叔父さんはなんと言った」  八五郎は、わけを一と通り聴くと、もう一と息突っ込んで見る気になりました。 「剣もほろろでした、叔父さんの言うには、『たった一人の姉に死なれたお前は可哀想だけれど、稲葉屋へは足踏みしたくない、高利の金を貸して儲けた身上に、目でもつけると思われちゃ正直な商人の恥だ、こんど勘十郎でも死んだら、その時は顔を出す』とこうですもの、取りつくしまもありません」  お君も口惜しそうでした、なんか非常に複雑な心持に悩まされている様子です。姉と違ってスラリと背が高く、小麦色の肌はあまり白粉も紅も知らないらしく、ややブロークンな眼鼻立ちも、表情が流動的で、かえって美しさを強調しております。  この娘の持つ魅力は、燃え上る精神力の美しさとでも言うべきものでしょうか。 「ところで、昨夜のことを、詳しく聴きたいが」 「なんにも申上げることなんかありません、私は二畳の部屋で帯を解きかけて、姉が湯からあがるのを待っていると、いきなり気味の悪い唸り声でしょう、つづいて姉が流しに倒れる音でした、驚いて飛んで行った時は、もうお仕舞いで」 「なんか言わなかったのか」 「言ったようでした、でも、窓越しに突かれたのでは、殺された姉にも下手人がわからなかったかも知れません、わかって居れば、名前くらいは言えたはずです」 「苦しい——と言ったそうじゃないか」 「そう言ったかも知れません、私には、『口惜《くや》しい』と聴えましたが」  苦しいと口惜しい、よく似た言葉ですが、意味は大変な違いです。 「ひどく姉を怨んでる者はなかったのか」 「そんなものはあるわけもありません」 「姉が死ねば、この身上はどうなるのだ」 「?」  お君は黙ってしまいました。 「外に気のついたことはないのか」 「裏木戸は閉っていたし、お隣は永井様のお屋敷でしょう、表に自身番もあり、まだ宵のうちで、人の往き来も多かったはずです、姉を殺した人は、どこから入って、どこから逃げたんでしょう」 「……」 「窓の外から突いた刀は、ずいぶん長いはずです、お武家でもなければ、そんな長いものは持って歩けません」 「……」 「刀をどこかへ隠したのではないでしょうか」  お君の言葉は暗示に富んだものでしたが、八五郎はそれを、漫然と聴き逃してしまいました。  残るのは下男の九郎助、貸し金も取立て、庭も掃くと言った重宝な男ですが、昨夜はたしかに赤坂へ使いに行っていたとわかって、これは疑いから除外されました。  一通りの調べが済んで帰ろうとすると、検死に立会った同心長谷部弥三郎が、老巧《ろうこう》の目明し、村雨《むらさめ》の鉄《てつ》をつれて、稲葉屋をのぞきました。 「八五郎、下手人の見当はついたか」  長谷部弥三郎は、まことに心得た仁体《にんてい》で、この事件を八五郎に任せるのは、はなはだ覚束ないとは思いながら、あから様にそれを言って恥を掻かせるでもあるまいと言った調子です。 「ヘエ、いろいろ調べては見ましたが、まだ、そこまでは参りません」 「平次が留守だそうだが、しっかりやるがいい」  長谷部弥三郎は、含みのあることを言って帰りましたが、一緒に来た村雨の鉄は、 「八|兄哥《あにい》、曲者は主人勘十郎を狙って、間違って内儀を殺したそうじゃないか、主人を憎んでいるのは、小網町の惣吉さ、三代伝わる稲葉屋の大身代を、どこの馬の骨ともわからぬ勘十郎に横取りされて、稲葉屋の先々代の弟に生れた惣吉は、小網町で小商いをしているんだ、癪にもさわるだろうじゃないか、俺は帰りに小網町に寄ってみて、少しでも怪しいことがあれば、浅野屋惣吉と倅の惣之助を縛って行くよ、親子で口を併《あわ》せさえすれば、どっちが抜け出しても、胡麻化しがつくよ、頼むぜ、おい、八兄哥」  そんな憎いことを言って、同心長谷部弥三郎の後を、セカセカと追って行く村雨の鉄です。     四  それから七日、八日と日が経ちました、江戸の町はすっかり夏になりきって、上方へ行った銭形の平次からは、京へ着いたという手紙が来ましたが、御用を済ませて大阪へ伸《の》したよ、帰りはお伊勢詣りもしたいからという文面では、まだ十日や二十日はかかりそうです。  稲葉屋の内儀殺しは、それっきりわからず、村雨の鉄が縛った浅野屋の父子も、不在証明《アリバイ》がはっきりしているので、三日目には許されて帰り、いよいよ主人勘十郎を怨んでいるという、昔同藩の浪人者、阿星源之丞を捜すより他に術《て》はなくなりましたが、この大兵《たいひょう》で髯が濃くて、少しびっこだという人間は、どこへ潜ったか、それっきり姿も見せません。  そのあいだ、八五郎とお君は、妙に気が合ったものか、次第に親しさを加えて、お玉ガ池の玉吉にからかわれるようになりました。 「八|兄哥《あにい》の惚れっぽいにも驚くぜ」  くらいのことでは、もとより八五郎驚くわけもありません。  稲葉屋の内儀が殺されてから九日目の昼下がりでした。内儀の妹のお君が、下男の九郎助に大きな荷物を背負わせて、向柳原へ、 「当分、私を置いて下さいな、八五郎親分」  と、転げ込んで来たには胆をつぶしました。八五郎の叔母がいたら、さぞうるさい事になったでしょうが、幸か不幸か叔母はあれから明神下の平次の家へ留守番に行っており、お君の押掛け居候に、誰も文句の言い手はありません。 「どうしたえ、お君さん」  八五郎はゾクゾクしながらも、ようやく正気を取戻しました。お君はめずらしく薄化粧などして、今日はまた非凡の美しさです。 「あら、そんなにびっくりすることないわ、押掛け嫁じゃない、押掛け居候なの、食い扶持《ぶち》くらいは出すわ」  お君は九郎助の背負って来た荷物を縁側から入れさせて、自分は入口からニジリ上がるのです。 「押掛け嫁なら俺の一存できめるが、押掛け居候じゃ、.叔母さんに訊かなきゃ」 「何を言うの八五郎親分、——私は日本中に居る場所がなくてやって来たんじゃないの、泊り込んで悪かったら、せめて荷物だけ預かって下さらない? そして、どうしても我慢が出来なかったら、夜でも夜中でもここへ飛んで来るわ」 「我慢の出来ないことと言うと?」 「姉の亭主——あの稲葉屋の勘十郎が、姉が死んで七日も経たないうちから、私へ変なことばかりするんだもの、気味が悪くて、あの家に居られやしない」 「あの人が?」  八五郎も胆をつぶしました。あのもっともらしい武家あがりの勘十郎が死んだ女房の妹に、初七日も経たぬうちから絡みつくとは、あまりのことに口もきけません。 「九郎助も知って居る、訊いて見て下さい、私は蛇に見込まれた蛙のように、すくんでばかり居なきゃならない、ね、八五郎親分、後生だから私をここへ置いて下さいな、八五郎親分なら大丈夫、私をどうもしやしないでしょうね」  お君は、朝夕どんなに冒涜的なことをされたか、大きな眼からは思いつめた涙が溢れているではありませんか。 「そいつは弱ったぜ、お君さん、お前の身内か、親類と言った、力になってくれる人はないのか」 「三代もつづけて高利の金貸しをやって居ると、たいていの親類は足が遠くなりますよ、浅野屋だってあのとおり喧嘩別れだし」  お君は本当にやるせない姿でした。 「こうしようじゃないか、俺は御用が多い上に、朝夕明神下の銭形の親分のところへも顔を出さなきゃならない。お君さんはここを勝手に使っても構わないが、夜だけは矢の倉の稲葉屋に帰って、下女のお直の部屋にでも泊めて貰ったらどうだ」 「ありがとう、八五郎親分、そうして下されば、毎日少しずつでも私の荷物を運び出して、稲葉屋と縁を切って、出るときの用意をしましょう、——この家の用心は大丈夫でしょうね」  向柳原の路地の奥の長屋、叔母は留守で八五郎は滅多に寄りつかないところへ、大事な荷物を運び込むことは、お君に取っても少しばかりの不安がないでもありません。 「それは大丈夫だ、この辺は貧乏人ばかりだから空巣狙いやコソ泥は目をつけないよ、それに近所の衆が見張って下さるから、野良猫が一匹忍び込んでも長屋中の騒ぎだ、もっとも、お君さんは綺麗過ぎるから、繁々《しげしげ》出入りしたら、変に思う人があるかも知れない」  八五郎もようやく冗談を言う気持になりました。     五  お君と八五郎のままごとは、それから二十日ばかり続きました。お君が稲葉屋から持出して来る荷物が、次第に多くなりますが、夜だけはさすがに遠慮して、稲葉屋に帰って下女のお直の部屋へ入って寝るので、向柳原の叔母の二階に、気のきかない鼠のように留守番をして居る、八五郎の神経を脅やかすようなことはありません。  でも、明神下まで行って、昼飯にありつくのが面倒臭い時など、ちょうどお君が向柳原へ来合せると、八五郎のために昼の仕度をしてくれて、貧しいご飯を並んでたべることも珍しくはありませんでした。  それが近所の人達の眼にも留まり、妙な噂も立てられましたが、八五郎は『なんとかの二人名が高し』と言った線に踏み留って、ほくそ笑んだり、頬っぺたをつねったり、少しはお君をからかって見たり、薄暗くなってから帰るのを矢の倉まで送ったり、そんな嬉しいようなやるせない日を送って居るのでした。  ところが、ある晩。  夏の夜もようやく更けた、子刻《ねのこく》(十二時)少し過ぎ、向柳原の八五郎の家の表戸を、メチャメチャに叩く者があるのです。 「八五郎親分、大変、大変なことになりました」 「誰だえ、お前は」  八五郎が二階から首を出すと、 「稲葉屋の九郎助ですよ、早く来て下さい、旦那様が殺されました」 「なに? あの腕自慢の勘十郎が?」  八五郎は手早く仕度をすると、九郎助と一緒に矢の倉に飛びました。  稲葉屋には、妹のお君と下女のお直が、主人勘十郎の無惨な死骸を、遠くの方から眺めて、ただウロウロするばかり、夜中不意の出来事でまだ近所の衆も顔を出しておりません。  外は雨あがりの月夜。  主人勘十郎が刺されている梯子段の下へ、一枚引いた雨戸の隙間から月の光が射して、凄惨な有様を青白く照しております。  主人の死骸は、その梯子段の下に転がっており、叩き付けたように崩折《くずお》れておりました。背中に突っ立った短刀は、さして長いものではありませんが、ほとんど前へ突き抜けるほど深く入っているばかりでなく、不思議なことにその短刀は柄も|はばき《ヽヽヽ》も取り払った全く裸の刀身だけ、こんな持ち憎いものを、こんなに深く突き立てるのは、玄能《げんのう》で打ち込む外はありません。 「これは大変なことじゃないか」  しかも死骸の着ているのは、帯ひろどけた寝巻一枚だけ、武家あがりの勘十郎が、日頃の大言にも似気《にげ》なく、俎板《まないた》の上の鰻《うなぎ》のようにやられるのは、あまりと言えば不思議なことです。  騒ぎの最中に、お玉ガ池の玉吉も、村雨の鉄も駈け付けました。が、殺しの奇怪さに、互いに顔を見合せるばかり、全く見当もつかない有様。 「見てくれ、俺はもう匙《さじ》を投げたよ。十手捕縄を返上して、筮竹《ぜいちく》でも買って来るとしようか」  八五郎が投げたことを言っても、玉吉も村雨の鉄も冷やかす気力もありません。 「ところで、死骸を動かさなかったのか」  八五郎はようやく勇気を取戻しました。血は梯子段のすぐ下、板が反って、隙間だらけになった廊下に、おびただしく流れておりますが、死骸はそこから三尺ばかり風呂場の方に動かされて、仰向けになっているのです。 「私はお直の部屋に泊って、いつものように枕を並べて寝《やす》んでおりました——夜中に恐ろしい音がしたので眼をさまし、お直と一緒に、手燭を持って来ると、梯子段の下に義兄《にい》さんが仰向けに倒れているので、介抱する積りで起してやりましたが、その時はもう正気もなかったんです」  お君はわずかに勇気を振りしぼったらしく、八五郎の問いに答えます。 「雨戸は、開いていたんだね」 「そこの雨戸が少し開いていました、たぶん、曲者はそこから入るか逃げるかしたんでしょう」 「それにしちゃ、雨上りの庭に、足跡もないが」  村雨の鉄は雨戸の外へ首を出して、よく晴れた月の光に透しております。照降町《てりふりちょう》に住んでいるから、村雨の鉄という綽名を持っている中年男で、名前ほど凄味のある岡っ引ではありません。 「足跡を残さない曲者は、ずいぶんあるものだよ、庇《ひさし》を渡ったり、ぬかるみへ張り板を敷いたり、縄でブランコをやったり」  今までにずいぶんそんな術《て》は見てきた八五郎ですが、ここの庭は思いのほか広く、そのいずれの手段もいけないことまでは気が付かない様子です。 「それにしても、背中の傷は大変だぜ、短刀にしては傷口が無暗に大きく、そのうえ人間業では出来そうもないほどの深さだ」  玉吉はそんな事にこだわっておりますが、それ以上はちょっとも先へ推理が動きそうもなかったのです。  下男の九郎助は、お勝手の外の物置に、一と間を拵えて泊っておりますが、曲者が来たのも逃げたのも知らず、四十男の気の抜けた頭では、証拠になるようなことは一つも掴《つか》んでいないのです。  それからの八五郎の惨めさは、まことに眼も当てられません。主人勘十郎を刺した短刀は、主人勘十郎自身のものとわかりましたが、拵《こしら》えがそっくり鞘と一緒に勘十郎の用箪笥の中から出て来たので、誰がなんの目的で、柄もはばきも外し、裸の刀身だけ持出して、主人自身の命を断ったか、その経路や手段はまるっきりわからなかったのです。  折柄平次や八五郎に目をかけてくれる、与力筆頭笹野新三郎は、平次と一緒に上方へ行って留守、この事件を背負って立った形の八五郎は、三輸の万七をはじめ、日ごろ平次の手柄を心よく思わない江戸の競争者達から、どんなに笑われ蔑《さげ》すまれたことでしょう。     六  それから三日目の晩、不意に銭形平次が帰って来たのです。  旅先からの片便りで、平次自身も江戸のことばかり気にしておりましたが、笹野新三郎の供では、勝手に帰ることもならず、ようやく日程を済ませて、前触れもなく明神下の家へ帰って見ると、 「親分、あっしはもう、明日という日には、十手捕縄を返上する気でいましたよ」  いきなり八五郎が、泣き出しそうな声を出すのでした。 「番太の株の安い売物でもあったのかえ、それにしても、顔を見るといきなり泣き言をいうようじゃ、お前という人間も頼母《たのも》しくないぜ」  お早ようとも、御苦労様とも言わない八五郎を茶かしながらも、平次の眼には深い思いやりが燃えるのです。 「聴いて下さいよ、親分、矢の倉の稲葉屋の内儀が殺され、それから主人の勘十郎が、不思議な殺しに遭ったいきさつ、一と月も苦労しているが、あっしには見当もつきませんよ、岡っ引仲間には笑われるし、世間からは馬鹿にされるし、あっしはもう首でもくくるか坊主になるか、江戸を逃げ出すか、外に術《て》はありませんよ」 「泣くなよ。八」 「その中で、蔭になり日向になり、あっしを慰めてくれたのはお君さんばっかり」 「よしよしそんなに気に入ったら、お君さんと添わせる工夫もあるだろう、なに、そんな大それた望みは起きねえ、——気の小さい事を言うな、俺も長い旅から帰ったばかりの今夜だ、せめて二三日は眼玉のとろけるほど寝てみてえが、お前に首をくくられても困るから、これからすぐ矢の倉へ出かけて行って、トコトンまで調べてみよう、幸いまだ誰も俺が帰ったとは知るめえ、来い八」  銭形平次はそんな男でした。草鞋も脱がず旅の埃《ほこり》も払わず、女房のお静が汲んでくれた洗足盥《せんぞくだらい》の水を流し目に見て、両掛け一つを放り出すと、もう八五郎を追っ立てるように、宵の街を矢の倉へ急ぐのでした。  稲葉屋は思わぬ時の、思わぬ人の訪問に、さすがに色めき立ちましたが、内儀の妹のお君と、下女のお直と、下男の九郎助だけで、夜中の俄《にわ》かの調べにも、不服を言う人もありません。 「八、お君さんが、刀のことを言ったそうだな」 「内儀さんの殺された時、そんな事を言っていましたよ、でも、刀はやはり見付からなかったようで、縁の下も下水の中も、井戸の中も、石畳の下も、庇の裏も念入りに見たはずだが」 「まだ見落したところがあったはずだよ」  平次は手燭を借りると、ちょっと庭へ出ましたが、まもなく長目の刀を一口《ひとふり》、血錆《ちさび》のまま持って来たのでした。 「どこにあったんです、それは?」 「太い竹の節を抜いた雨樋《あまどい》の中にあったのさ、そんな事だろうと思ったが」 「誰の刀でしょう、それは」 「たぶん、主人を刺した匕首と同じことで、外から持込んだものじゃあるまいよ」 「ヘエ」 「まだ、面白いことがある、内儀さんが殺された時と同じように、手燭をつけて風呂場に置き、お前は着物を着たままで構わないから流しに立っていてくれ」  平次の言い付けどおりに運ぶと、八五郎を風呂場に立たせたまま、平次はグルリと廻って外へ出ました。 「八、いいか」  平次は外から声を掛けました。 「何がいいんです、親分、あッ、頭を突いちゃいけませんよ」 「窓の障子に映った影法師の背中を突くと灯《あかり》が下にあるからお前の頭の上を突くことになるのさ」 「すると、どういう事になるんです?」 「下手人は、前々から、窓に凭《もた》れるようにして立って身体を拭く内儀の癖を見ておいて、外から間違いのない見当をつけて障子越しに背中を刺したのだよ、主人を殺すつもりで間違って内儀を殺したのではなく、さいしょから内儀を狙って念入りに考えた仕業だよ」 「すると」 「血刀《ちがたな》は雨樋の中に隠し、庇を渡って二階へ這い上ったことだろう」 「二階へ?」 「こっちへ来て見るがいい」  平次は八五郎を二階に導きました。後からお君とお直と、九郎助がついて来たことは言うまでもありません。  二階へ上ると平次は、窓格子を丁寧に調べておりましたが、格子が全部わくに取付けて、釘で打ちつけてあるのも構わず、その釘を一本一本調べて行く内、果して三寸ほどの逞ましい釘が、見掛けに寄らず、二本までも苦もなく抜けて、窓格子がわけもなく外れるところのあるのを発見しました。 「釘は古いのを使ってあるから、ちょっと見たくらいでは穴を大きくして自由に抜けるように仕掛けてあることに気がつかなかったのだ」  平次の言葉のおわらぬうちに、 「やはり、あの人が、姉を殺したんですね、私も、そうと思っていました、たしかな証拠が一つも無いので、八五郎親分にも申し兼ねましたが」  お君は後ろから口惜しそうに言うのです。     七  なおも平次は、二階から階下《した》へ、嘗《な》めるように丁寧に調べたうえ、押入れを開けたり、梯子段の下を覗いたり、しばらく粘っておりましたが、やがて、八五郎を促し立てて、稲葉屋から引揚げ、明神下の自分の家へ帰って、ようやくくつろいだのは、もう夜半近い頃でした。 「腹も減ったが、ともかくも、無事に帰ったお祝に一杯やらかしながら、八に少し訊いてみたいことがあるよ」 「ヘエ、怖いようですね、親分」  生温いところを一杯、先ずキューツとやりながら、八五郎は訊き返しました。 「叔母さんも居ることだし、皆んなでよく考えてくれ」 「八はあのお君という娘に、余っぽど気があるようだが、あれだけは止した方がいいぜ」 「どうして、あの娘はいけないんです、親分の前だが」 「むきにならずに、落着いて聴いてくれ、なア、八、あの稲葉屋の勘十郎を殺したのは、外ならぬお君だとしたらどうだ」 「エッ、そんな馬鹿なことが——」  八五郎は躍起となります。 「姉の敵《かたき》を討つ積りでやったことで、お君が手を下したわけじゃないが、勘十郎を殺す仕掛けは皆んなあの娘《こ》のカラクリだよ」 「?」 「勘十郎は武家上りで、かなり腕も出来ている、姉の敵とはわかっていても、お上に訴え出るほどの証拠もなく、妹のお君には、敵を討つ腕もない。そこで勘十郎に言い寄られる苦しさに、八五郎のところへ、自分の持物を運び出し、いつかは逃げ出そうとしたことだろうが、フト思い付いたのは、勘十郎をおびき出して、殺す工夫だ」 「……」 「あの娘は利巧だから、その晩仕掛けをして置いて勘十郎を呼出した。勘十郎は約束した刻限に、気もそぞろであの暗くて急な梯子段を降りたことだろう」 「……」 「よく見るとわかるが、あの梯子段の上から二つ目には、蝋が引いてあった、あとで念入りに拭いたことだろうが、まだ跡に蝋が残っている、その蝋を引いた段の上に、もう一つ、段一パイになる薄板をおき、その裏板にも蝋を引いて置いたのだ、薄板には長い紐をつけて、お勝手まで引張ってある」 「下女のお直は若くて丈夫で寝坊だから、お君が隣のお勝手に脱け出して、仕掛けの紐を引いたことには気がつくまい。主人の勘十郎が梯子段の二段目を踏んだ時、力任せにその紐を引くと、あの図体の主人は、不意に足を取られるから梯子の二段目からもんどり打って十三段目の下まで落ちたことだろう」 「……」 「梯子の下の廊下の板には大きな隙間がある、あの辺へ柄もはばきも取り払った、裸かの短刀を、逆様に立てて置いたら、どんなことになると思う、どんな達人だって、間違いもなく芋《いも》刺しじゃないか、それを仕掛けたお君は、うまく行けば姉の敵を討ち、まかり間違えば、向柳原の八五郎のところへ逃げ込む気だったに違いあるまい、——俺は梯子の二段目の蝋の跡で気が付いたが、その上の動かない証拠の、蝋を塗った薄板は、紐だけ解いて、押入れの奥か物置にでも突っ込んであるだろう。利巧なようでもお君は、根が悪人でないから、自分の智恵の逞ましいのに己惚《うぬぼ》れて、妙なところに手落ちのあるものだ」 「……」  八五郎はあまりの事に口もきけず、乾いた唇を噛んで黙りこくっております。 「お君は良い娘《こ》だが、利巧過ぎてお前の嫁には不向きだよ、わかったか八」 「ヘエ」 「もっとも俺はお君を縛る気はねえよ、安心するがいい。——俺が縛らなきゃ、あとはお前の勝手だが、ここでお君を縛らないと、三輸の親分はじめ江戸中の岡っ引仲間から、馬鹿にされっ放しになるが、構わねえのか」 「構いませんとも、親分」  八五郎は昂然《こうぜん》として、冷たくなった酒をガブリと呑むと、泣き笑いにクシャクシャになった顔を振り仰ぐのです。     *  翌る日お君は向柳原の八五郎の家から、預かっておいた荷物を皆んな矢の倉へ運ばせました。 「さよなら、八五郎親分、お世話になったわねエ」  と言ってニッコリした顔が、八五郎の濡れた眼の中に霞んで行きます。  まもなく浅野屋の倅惣之助が、お君の婿になって稲葉屋の跡を継ぎ、八五郎には、お君の残して行った、ささやかな小道具が一つ二つ残っただけ、それを人知れずいつくしむ八五郎の姿を、素知らぬ顔をしながら、平次は黙って眺めておりました。   (完)